よき人

こんな記事が目に留まった。

 

”   永世タイトル七冠を達成し、将棋界で初めて国民栄誉賞を得た羽生善治氏が、平成元年の初タイトル獲得から初めて、すべてのタイトルを失う「無冠」となった。

同氏には「前竜王」の肩書を用いる選択肢もあったが、あっさりと「羽生九段」の呼称を選択した。

「羽生九段」とは、一部のファンにとっては、天地がひっくり返っても受入れられない呼称だったのだ。なにしろ、平成元年以降、一度もタイトルを失ったことがないのである。

そんなファンの思いをよそに、羽生さんはあまりにあっさりと「九段」の称号を選んだ。

 

トップアスリートといえば、「ひたすらNo.1の座に執着して、目標達成のためにすべてを犠牲にする」というイメージがある。

ビジネスにおいても結果を出すため、揺るぎない意志や姿勢を持てと説く人は多い。

意外かもしれないが、羽生さんが推奨するスタイルは、むしろその逆で「いかにそれを手放すか」ということを説いている。

羽生善治氏が推奨しているのは以下の三点だ。

 

・客観的な目で見る

・楽観的に考える

・本当には大切でないものを見極め、手放す

 

驚くべきことに、これに加えて「幸せを実感するには、あまり高いハードルを設けないこと」なんて言葉さえ登場する。

 

生きるうえでの「客観的、楽観的、手放す」というこの三拍子は「簡単そうだ」「普通のことだ」と感じるかもしれない。

客観的に、楽観的にと口で言うのは簡単だ。 しかし、人は客観的であるどころか、なにかと自分の主観に都合よく考えてしまうものであり、1つひとつの結果に執着し、一喜一憂する。

そこで発生するのが、自分が持っていきたい勝負の流れと、相手の流れのぶつかり合いである。

こうしたゲーム観を踏まえて、しばしば羽生さんは「自力だけでは勝てない」「むしろ他力をいかに活かすかが大事」と説いている。

自分の流れ、相手の流れ、あるいはまわりの流れを客観的に見極めて、不要な荷物を手放すことはできる。

そうすることにより、本当に必要な流れに乗ることはできる。

氏の座右の銘、八面玲瓏の境地に至って初めて、そうした「ありありとした自分の姿」が見えるのかもしれない。 ”

 

 

 

まったくもって、羽生さんはすごいことを言っている。

本当の勝負師とは、高尚な僧侶や哲学家ともいえるのでしょうね。

私たちの日々の生き方に、最大級のヒントを与えていただいた気持ちです。

 

私が「本当には大切でないものを見極め、手放す」から連想したことは、

 

「所有」(と執着)

 

地位や名誉を所有する。

肩書を所有する。

お金や財産を所有する。

恋人や家族を所有する。

車や家、服に貴金属、あらゆる道具や雑貨品・・・ を所有する。

 

これらを所有すればするほど、維持しなければならない、まもらなければならない、失いたくない・・ という気持ちが生まれてくる。

そしてその気持ちに押しつぶされるように、

支配されるように「自分」を失っていく。

 

もともとは何も持たざる人で生まれてきたのに、

もともとは何も所有してなかったのに、

もともとは何も失うものはなかったのに、

所有(と執着)が始まったとたんに、「自ら」を失い始める。

 

そのことが怖いことだと羽生さんは言っているように思った。

 

 

「肩書」を所有するために将棋をしているのではないということを、

その激しい勝負の世界、強力なライバルの力を借りながら、

「気づき」続けてこられたのかもしれない。

 

気づかせてくれるよき人々と、

これからも付き合っていきたい。

 

 

 

 

 

 

愛車交代

26年半ほどお世話になり続けた愛車ハイエース君と入れ替わりに、我が家の一員となったプラド君なのだが、ひと月立っても何やかやと忙しくて乗る暇もなかった。

やっと17日の日曜日に、かみさんとドライブに行くことができたのであった。

 

まあ正直言うと、でかくなって、おまけにボンネットがあるので見切りが悪くなり、ビビりながら運転するのがやっとだったので、練習がてらどこかに行きたいという気持でありました。

慣れるしかないのはわかっているので、走るしかない。

 

で、行った先は四国中央市の霧の森。

できるだけ国道を走り、感覚をつかむ。

時間はあるのでゆっくり走りながら確かめていく。

 

 

 

うーん、今の車はすごいことになっている。。

アナログな部分はあるのかないのか?

いやしかし、デジタルの精度が異常に進化し、アナログ感さえ出してきているのか?

なんかようわからんことになっていました。 (笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とても久しぶりの霧の森で食事をし、しばらくくつろいだ後、名刹「仙龍寺」へと続く酷道にチャレンジします。

慣れない車だとやばい道ですが、ゆっくり走ればなんとか・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かみさんも感激の仙龍寺でしたので、そこはよしです。

その後も続く酷道も何とかクリアーして、今度は別子銅山ルートで新居浜に向かいます。

交通量が少ないことが幸いですが、だいぶ慣れてはまいりました。

 

途中の絶景ポイントから、残雪の残る笹ヶ峰、黒森山の雄姿を拝みます。

まったく山に行けてないので、これだけでも感動しました。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後も一般道をゆっくり走りながら、なんとか無事に帰宅。

27年前の車より勝っている部分も、劣っている部分も、それなりに感じることができましたが、

いずれにせよ、また長くお世話になるつもりです。

共に思い出を創り続けてまいりましょう。

 

愛車と呼べる日が来るまで。

 

 

 

 

 

減る教養

劇作家の福田恆存さんは、信州へ向かう列車内で、隣の高齢の女性から「窓を開けたいと思うが、迷惑ではないか」と問われた。

粗末な身なりで地の人らしい彼女に西洋風の作法で接せられたことに驚く。

見慣れぬ人には「距離を保って自分を位置づける」という躾が行き届いていたからだろうと言う。

 

その時の体験から生まれた言葉が、

『日常的でないものにぶつかったとき、即座に応用が利くということ、それが教養というものです』

 

 

何もそこまで小難しく考えなくても・・・

 

と、思いがちではありますが、間違いなく深く沁みる行為ではあります。

私が子供のころには当たり前のようにあった行為でもありますが、昨今では大人も子供もなかなかやらない行為になってしまったような。

いや、やらないというより、他者への「気づき」がないままに、「自我」中心にふるまうことが当たり前になってしまったというべきでしょうか。

 

これは私も他人ごとではなく、どんどんその「力」が無くなっているように思われてなりません。

福田さんの言葉を借りれば、

すなわち「教養」がどんどん消え失せている状態ということになるのでしょうか?

 

どんどん消え失せて、最後の最後に赤子に帰れればまだいいのですが、中途半端な「自己中」親父で止まってしまったら・・

 

おおっ怖っ!

 

 

どんどん減る教養であるならば、

せめて「思いやり」の気持ちくらいは持ち続けたいものであります。