生物学者の福岡伸一氏と、保育士ライターのブレイディみかこさんの新春対談が面白かった。
昨今頻繁に目と耳に飛び込んでくる「多様性」に関することであったが、この定義が人それぞれなので、真の議論に発展しないような居心地の悪さを感じることが多かった。
そんなテーマにこの二人はどう切り込んでくれるのか、興味津々で読みながら感じたことなどをまとめてみた。
ブレイディみかこさんが出版された「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」は、アイルランド人のパートナーとの間に生まれた息子さんが、英国の中学で多様なルーツを持つ友達との交流や貧富、差別などに直面しながら成長していく話だが、その中で「なぜ多様性が大事なのか」と尋ねる息子さんに対して、「うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、多様性は無知を減らす」と答えている。
ブレイディ
息子の期末試験で「エンパシーとは何か」という問題が出た。
私が辞書で調べたら、他人の感情や経験を理解する「能力」とあった。
息子は試験用紙に「自分で誰かの靴を履いてみること」と書いた。
エンパシーと似た言葉に「シンパシー」があり、どちらも「共感」と訳される。
ただ、シンパシーは「かわいそう」や「共鳴する」という感情の動きで、対象となるのは特定の人です。
一方エンパシーは、他者の立場を想像して、理解しようとする自発的で知的な作業です。
福岡
ここ数年日本ではやった「忖度」という言葉とは対照的です。
相手の心を想像するのはエンパシーと同じでも、忖度は自分の身を守るためだけの利己的な行為と感じる。
ブレイディ
日本社会に独特の同調圧力の強さにも関係している気がします。
福岡
ジャレッド・ダイアモンド博士と話したとき、どの民族にも例えば「殺すな、盗むな、うそをつくな」という戒めは共通してあるけれど、「他人に迷惑をかけるな」という戒めを重視する民族は日本人だけであると。
ブレイディ
「迷惑をかけない」という気持ちは、日本人の場合、行為だけでなく服装などにも及びますね。
人を不快にさせない、集団から目立たない、といった理由で身なりをきちんとするわけで。
福岡
誰もが日本語がわかって当然という均質的な社会なので、言外の意味を忖度したり、空気を読むという圧力が生じてしまう。
米国では、違う文化で生まれ育った人々がプアな英語で意思疎通しているため、言葉で表現したこと以外に気を回す余裕はないし、それを求められもしない。
自分自身や自国の文化を相対化する環境に身を置く経験は貴重です。
ブレイディ
「身を置く」っていい言葉。
私はエンパシーを働かせるためには土壌がいると思う。
それは街で異なる人たちと実際にかかわり合うこと。
それが他者を想像するときの土台になる。
ツイッターで頭の中だけの議論をするのはやめて、街に出ようよって思う。
福岡
「多様性」と言う言葉は1980年代後半、生物の種の多様性が必要だという形で提唱され、広まっていったのだと思う。
一般にはライオンとか象といった数多くの「種」が存在していることを示すが、実はひとつの種の中に多様性が存在することも、その種が生き延びるために不可欠なんです。
何百万年といった生物界の長い時間軸の中では、いつ突然、環境が激変するかわからない。
その時、ひ弱そうな個体の方が生き延びるかもしれないんです。
種が生き残るためには、個体のバリエーションが豊富なほうがいいという多様性です。
アリには必ず2割程度、忙しいふりをしてサボっている個体がいます。 この2割を取り除くと、残りの勤勉なアリの2割がまたサボりだす。
天敵に攻められたときに戦うためとか、洪水の際に巣を直すためとか、いろんな説があるけどよくわからない。
平たく言えば「変わり者」を多く内包している社会の方が実は強靭だと示唆してくれます。
でも生物学的にには、人間ほど多様性に乏しい生き物はいません。
人間は他の動物と比べ、遺伝子レベルでは非常に均質性の高い種です。
肌の色や習慣、宗教などほんの小さな差異が大きな違いに見えるのは、逆に均質すぎるからなのです。
「人種」という言葉がありますが、我々「ホモサピエンス」はどんな組み合わせの男女でも子どもを作れる完全均一な種です。
仮に現在、ネアンデルタール人が生き残っていたとしたら、彼らとセックスしても子どもができにくい。
社会で少数派の彼らが差別される・・ なんてことがあったら、これが本当の「人種問題」です。
ブレイディ
今の人種の違いなんてどうでもよくなる、壮大な「人種問題」ですね。
ところでGAFA(グーグル、アップルフェイスブック、アマゾン)などのグローバル企業も、多種多様で優秀な人材をかき集めながら、世界中でサービスの画一化を進めています。
どの国でも同じ味のコーヒーを飲めるようになった。 しかし、結局は効率的に売り上げを最大化しているだけで、自分の利益のことしか考えていないんじゃないでしょうか。
多様性とは真逆の方向に見えます。
福岡
私もそう思います。
先端企業は「多様な人材でイノベーションを」といいますが、真の多様性とは、違う者の共存を受け入れるという、いわば利他的な概念です。
本質的には自己の利益や結果を求めるものではない。 多様性は、利己性より利他性になじみがあると思います。
植物は自らが必要とする以上に葉を作って光合成をし、その落ち葉で微生物が増え、葉や木の実を食べて虫や鳥は命をつなぐ。
もし植物が自己の必要量しか光合成をしなかったら、他の生物は存在できません。
ブレイディ
はたして人間には元来、利他的になれる力は備わっているのかな。
「他人の靴を履いてみる」と言っても、「くさい靴」も「ダサい靴」もある。
考えたくもない人の立場に立って発想してみるって、すごく難しい。
「他人の靴を履こう」とする力を人間は本来的に持っているものなのでしょうか。
福岡
持っていると思いますが、自ら学ぼうとしないと自分の利他性に気づけないんです。
何も知らないままでは他者の立場を考えられない。
偏見や強者の支配にとらわれてしまいます。
学ぶのは「自由」になるため。
そして「自由」になれば、人間は「他人の靴を履く」こともできると思うんです。
ブレイディ
自由になって他人の靴を履くって、しみじみいい言葉だなあ。
福岡
山に登ると遠くまで見渡せるように、勉強すれば人の視界は広くなる。
すると、お互いの自由も尊重し合う力を持てるようになります。
現在は「公平さ・公正さより本音」といった流れが世界で強まり、排除の論理が大手を振って歩いていますが、いつか正気を取り戻し、個と個の違いをみんなで認め、共有していこう、という方向へ進みだしますよ。
ブレイディ
多様性っていうと人種や文化、LGBTや社会階層など、属性の多様性に目が向きがちですが、実はアイデンティティーは一つじゃない。
いくつかの組み合わせで一人一人のユニークな「自分」ができている。
その個人が尊重されること、これが多様性なんだと思います。
日本の社会もそう変わっていけますか。
福岡
日本でも否応なく異質な存在と出会う場が増えていますし、少しずつですが、「個」を尊重する方向に向かっていると思います。
ブレイディ
私もそんな気がします。
スケールの大きな視点から、「多様性」について考えるきっかけをいただいたというのが正直なところです。
たしかに金魚一つとっても、「同じ」ではなく、一つの種の中に多様性があり、見事に性格も行動も違っています。(飼っている)
環境が変化しても、どれか一つのタイプが生き残ればいいわけなのだというわけです。
ただ、人間のそれは動物と違っといるのだと福岡氏は言います。
人間は唯一、「産めよ増やせよ」という遺伝子のたくらみから脱出できた種なのだと。
福岡
ある種の昆虫は卵を約4000個産みます。
大半は死んでも、1、2匹生き残って種をつなげばOK。 つまり、生物において「個体」は「種」の保存に奉仕するための道具でしかない。 それが「遺伝子のたくらみ」です。
しかし人間だけは、「個体」に価値があると考えた方がより豊かな社会を構築できると気づき、それを人類共通の価値にしようと約束した。
それが基本的人権の起源だと思うんです。
と。
科学者が言っているのであるが、私には高名な宗教家か、哲学家が言っているようにさえ聞こえてくる。
均質すぎるゆえ些細な差異が目立ちすぎる、などの下りは「はっ」とさせられるし、個の尊重が、種を上回る約束をしたなどと考えたこともなかった。
もちろん難しく考えすぎても、行動へとつながりにくくなるが、大きな視点でとらえる「多様性」の意義は大切にしたい。
考えてみれば、毎年末に行っているフレッシュリーブス忘年会や、かつてのあいあいキャンプなども、まさに「種」の中の多様性が相集い、協働作業を行っていたわけで、そしてそこから相互理解が生まれ、自発的な助け合いが始まるというサイクルを体験してきたわけであります。
私も、そういうあまりにも素敵すぎる「体験」を通して確信しているからこそ、それからもいろんな場面や場所で、意図的に仕掛けられているわけですが、今年はもう一つ、そんな場所や環境を整備したいと思っています。
少しずつ構想を煮詰めてきたのですが、あとは考え方をカタチにまとめる作業が・・・
まあ今年中にできるかな~ 。。
相変わらずマイペースでやっていこうと思いまーす。
本年もよろしくお付き合いのほどをお願いいたします。