「さてさてまたまた恐ろしくも厳しいことをのたまうじゃああ~りませんか」 とお嘆きのあなた。
本当に厳しいとお思いですか?
「評価は成果なしでは与えられない」 と申しました。 そしてその成果はプロセス(努力)によって創られる とも申しました。
ではその成果をもうひとつの言葉で表現するとすれば、どのような言葉で表現できるのでしょう?
至極一般的に解釈するならば、 「成果とは責任と義務を果たしたものに与えられるもの」 とも言いかえられないでしょうか?
与えられた職務なり、自分で選択もしくは立候補した役割に対して、 どんなことがあろうと、 逃げずに立ち向かい、 知恵を絞り、 知識を補い、 時には他者の力を借り、 眠れない日々が続こうと、 どんなに時間がかかろうと、 時には自分の自我に鞭をあげ、 エゴを放り投げてでも、 その職務や役割の向こう側にある 「誰かのため」 に 「何かのため」 に、 ひたすらプロセス(努力)を体験し続ける。
企業でも、ボランティア団体でもそこには「誰のために」「何のために」それを行うという「理念」があり、「目的」がある。 したがってそれ以外のエゴのために行うことや、入れ替わった何かのために行うのであれば、 それはまったくもってその環境下において「責任」と「義務」をはたして無いということになるのである。
すなわち所属する環境に対して「ウソ」をついているということである。
そしてだからこそ、正しい「責任」と「義務」を果たした人は初めてその環境における正しい「成果」を生み出すことができる。
そして、 そしてその正しい「成果」を生み出したものだけが正当に、そして本当に 「評価」 されるのである。 評価に値するということである。
さあ、 少しはお分かりになっただろうか? 若き諸君たち。
今までのあいキャンは、 おままごと遊びだった、 ということである。
さあ行くぞ、 狂いかけたこの世界に対して、 狂い始めた人類に対して、 それにはわき目も振らずに、 ただ純粋に、 未来そのものである子どもたちのために、 その未来が今よりも少しでも正常な世界に生まれ変わるように、 子どもたちの力を今のうちに育てるために、 子どもたち自身の力に気づいてもらうために。
そのために私たちの「責任」と「義務」を果たそう。 この環境で。
そしてその結果生まれた正常な「成果」によって、 この環境に存在する私たちのすべてが、 正常に 「評価」 されるだろう。
その日のために、 さあ、 行くぞ 。