同じ釜の飯を食ったことのある友人が、逝った。
先週末の夜、お通夜に参列させていただき、お別れのあいさつをしてきた。
52歳という年齢であったが、それ以上の大きな体験経験をしてきたやつであった。
突然死であったが、医者に言わせると昨日今日の話ではないくらい心臓はボロボロであったらしい。
大きなストレスが、蝕んだことだろうと思う。
この世に重荷を下ろして、軽やかにあの世に旅立っていただきたいと願う。
翌日は、元ハンセン病患者の詩人、塔 和子さんを偲ぶつどいに歴史文化博物館に出向く。
塔さんが亡くなってから、ちょうど1年の節目に西予市と西予市教育委員会の主催で、彼女が遺した多くの詩に表現されている命や愛、ふるさとへの思いを共にし、偉大な詩人としての塔さんを市民をあげて顕彰するために「偲ぶつどい」として開催するものであった。
強制的な偏見と差別の容赦ない攻撃を、13歳のときから経験せざるを得ない人生からのみ生まれてくることばの宇宙。
そして、その宇宙に共感できるものだけが集まった会場の三百数十名。
満員でした。
そして最後まで清浄な空気感のままでした。
約50年前に女子高生だった河本さんは大阪からの参加。
当時学校でハンセン病のことを知り、瀬戸内の隔離施設に収容されていた塔さんと文通を始める。
長い手紙の交換を続けるうちに、塔さんが詩集を出したいことを知る。 印刷会社を経営していた父に相談すると、詩を見せろという。 塔さんから送ってもらい父に見せる。
「この人は只者ではない」という父の言葉。
そこから塔さんの詩は羽ばたき始める。
知らない世界がまた見えてくる。
ゆかりのある人たちのお話から、ますます塔さんが見えてくる。
絶望から生まれてきた命の詩。
苦しみから生まれてきた愛の詩。
ふたつを備え持っているからこそ、 リアルに伝わるものがある。
何時読んでも、普段覆い隠してきたはずの、小さな心のふるえる部分を見逃さずに刺激する。
その詩を歌にした人がいる。
沢 知恵。 http://www.comoesta.co.jp/
以前、由良野の森の鷲野さんからプレゼントしていただいたCDを初めて聞いてしびれた。
その人のコンサートが続く。
沢さんは塔さんの詩に出会い、そして毎年瀬戸内海の大島青松園に通い、島でライブ活動を14年続けてきた。
そして去年、塔さんが亡くなったあと、住み慣れた千葉から、大島青松園の近くの岡山県に移住した。
大島に通うことをライフワークと決めた。
そんな感性の人が、目の前で生で歌う。
あふれる。
なにもかも。
あふれてくる。
どうしようもなく自然に。
塔さんは人生のほとんどを島から出ることはなかったが、 数え切れないほどの人を島にひきつけた。
心にひきつけた。
そして多くの心に寄り添っている。
今も。
涙
“ あるとき
死のうと思った私が夫に
「一生懸命なのよ」と言うと
夫は
「同じ一生懸命になるのなら
生きることに一生懸命になってくれ
がむしゃらに生きようではないか」と
言ってくれた
わたしは目が覚めたように
そうだと思った
どんなに懸命に生きたとしても
永遠に続いている時間の中の
一瞬を
闇から浮き上がって
姿あらしめられているだけだ
いのち
この愛(いと)けないもの
思いっきりわが身を抱きしめると
きゅっと
涙が
にじみ出た ”
師
“ 私は砂漠にいたから
一滴の水の尊さがわかる
海の中を漂流していたから
つかんだ一片の木ぎれの重さがわかる
闇の中をさまよったから
かすかな灯の見えたときの喜びがわかる
過酷な師は
私をわかるものにするために
一刻も手をゆるめず
極限に立って一つを学ぶと
息つくひまもなく
また
新たなこころみへ投げ込んだ
いまも師は
大きな目をむき
まだまだおまえにわからせることは
行きつくところのない道のように
あるのだと
愛弟子である私から手をはなさない
そして
不思議な嫌悪と
親密さを感じるその顔を
近々とよせてくるのだ ”
胸の泉に
“ かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
この親しさは湧かなかった
この大らかな依存の安らいは得られなかった
この甘い思いや
さびしい思いも知らなかった
人はかかわることからさまざまな思いを知る
子は親とかかわり
親は子とかかわることによって
恋も友情も
かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る
ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
私の胸の泉に
枯れ葉いちまいも
落としてはくれない ”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%94%E5%92%8C%E5%AD%90