ここいらで少しホッとしましょうか。
簡単に振り返れば33歳くらいからどんどん自分だけの楽しみの世界から、「自分はなんて小さな人間だ、こんなにも大きな人になりたい、もっと学びたい」という動機をある恩師から頂き、それからは無我夢中でいろんなことにチャレンジさせていただき、今日の私を形作っているわけである。
当時はこの動機を与えてくれたということの大切さの意味もわからず、ただただ夢中で生きてきたのであるが、 この動機がもしも生まれずに今まで生きてきたらと想像しただけで、ひょっとすると今も自分のことにしか興味のないアンポンタンであったかも知れないわけで、いや決して今がアンポンタンではないということではなく(ある意味それ以上にアンポンタンであることは知っている)、 いずれにせよ何がしかの影響やきっかけをいただきながら人は成長させていただくのだなあと言うことである。
一人ひとりに恐らくは存在するであろう「恩師」、 小檜山さんの中に存在する恩師の一人とは・・・
ある恩師 小檜山 博 月刊「理念と経営」特集記事より
“ぼくが15歳のとき、第二次世界大戦が終わって7年しかたっておらず就職難だった。 それでぼくは父の命令で、就職率のいい苫小牧工業高校の電気科へ入った。 しかし数学が不得手なぼくに専門科目の交流理論や電磁事象、電気法規は難しく、テストはいつも零点近かった。
ぼくらが敬意をこめてダンジと呼んでいる担任の野村団二先生は、出来の悪いぼくをいつも「やれば出来るからな」と励ましてくれた。 それでぼくもがんばってはみたが成績は悪かった。
3年生の12月、ぼくがやっと受けることができた就職先は地元の新聞社の活字ひろいの仕事で、ダンジは「いいのかコヒヤマ、電気と関係ないとこで」と不安がった。 ぼくがなんとかそこへ就職が決まっても、ダンジはあまり喜ばなかった。
勤めて半年ほどたったころダンジから手紙がきて「仕事どうだ、もし合わなかったら言ってこい、君に合う仕事を探してやる」と書いてあった。 ぼくは何とかがんばりますと返事を出した。
ところが次の年もダンジから「仕事どうしてもうまくいかなかったら言ってよこせ」という手紙がきた。 ぼくが卒業後、ダンジは2回も新しい卒業生の就職探しに走り回っているはずなのに、まだ2年前に卒業したぼくのことを心配してくれているのだった。 ぼくは大丈夫ですと返事を書きながら、少し泣いた。
★
それから20年がたち、ぼくがその新聞社に勤めながら書いた小説が芥川賞の候補になって出版され、その祝賀会にダンジも出席してくれた。 ダンジはもう70歳過ぎで白髪の老人だった。
恩師として挨拶に立ったダンジはいきなり「コヒヤマはたいへん真面目で勉強ができ、優秀な生徒だった」と大嘘を並べてぼくをほめちぎり、ぼくは冷や汗にまみれた。 そしてダンジが最後に「コヒヤマは私の教え子。 この先もし彼が食えなくなったら私が何とかする」と言ったときには、ぼくは驚きのあまり椅子から飛び上がった。”
こんな感じの先生、 確かにいました。
今は 、 いるのかなあ?