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くちびるに歌を持て 心に太陽を持て  ⑯

不動産業という商売柄、相続の問題であるとか、財産分与の問題であるとかに遭遇する機会がある。

その時に、数多くの争議に出会うことも・・  そしてそのほとんどが兄弟がらみである。

なんで兄弟で? と思われるかもしれぬが、実際にその時、その立場にならないと人の本性はわからないものだろうし、その時々の事情もあるだろう。

一昔前であれば、長兄の指示に従うのが当たり前であり、他の兄弟は有無を言わさず財産放棄させられた事例はたくさんあった。

このことも問題だとは思うのだが、不思議と大きなトラブルにはならなかった。

時代は変わり、今そんなことでも言おうものなら、すかさず裁判沙汰にされるでしょう。

もちろんそんな兄弟ばかりでないことは百も承知ですが、それがいいのか、悪いのかということではなく、兄弟というものの存在とは、本来いかなるものであったのか?

今やそんなことさえ語れる時代ではなくなってしまったのかもしれませんねぇ。  何せ、兄弟そのものが居ない家庭も増えましたから・・

では、小檜山さんの知る兄弟とはいかがな兄弟であったのか?  覗いてみましょう。

 

 

兄弟    小檜山 博  (月刊誌 「理念と経営」より)

“ だいぶ前のことだ。 母の十三回忌で親族が札幌の長兄夫妻の家へ集まった。 仙台に嫁いでいる長姉は体調が悪くてこれなかったが、ぼくら男三人、女二人の兄弟とその連れ合いが顔を見せた。

その10年前に父が亡くなってから兄弟がそろうことも少なくなり、久しぶりに見た70歳の次兄も次兄の奥さんも白髪が目立った。 彼女も70歳になっていた。 その二人の顔に刻まれたしわの多さを見ているうちに、ぼくは45年前のことを思い出した。

当時、25歳の次兄夫妻は結婚して3年目で子供が一人いた。 農業をやめて街へ出て働き、家も新築していた。 そのことから中学三年のぼくは村の学校から街の学校へ転校し、次兄宅へ居候したのだった。 ぼくは1円のおカネも出さず食べるものも住むのも次兄の世話になり、PTA会費や生徒会費まで次兄夫妻に出してもらったのだった。

考えてみれば次兄も家の月賦や生活費でたいへんだったはずなのに、ぼくはそんなことにまるで気づかず、のうのうと食べて寝ていたのだった。

ぼくが遠くの高校へ入って寄宿舎生活をしはじめても、貧乏農家の父母はぼくへの仕送りができず、長兄と次兄が半分ずつおカネを送ってくれた。 そのうえさらにぼくは、夏と冬の休みで実家へ帰るたびに途中にある次兄の家へも寄った。 用などないのに、ただ小遣いをもらうためだけだった。 いま思うと、ぼくはまったくできの悪い弟だったわけだ。

 

母の法要が終わって坊さんが帰ったあと親族で酒を飲んだ。 やがてぼくは少し酔い、次兄夫妻のそばへ行って座った。 そして45年前にしてもらった仕送りや小遣いの礼を言った。

するとぼくの義姉である次兄の妻はゆったりとした笑顔で「そんなことあったかしらねえ、忘れちゃったよ」と言って次兄を見た。 次兄がビール瓶をぼくに差し出し「水くさいこと言うなや。兄弟だべや」と笑った。

60歳のぼくは涙で二人が見えなくなり、顔を伏せた。 ”

 

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