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みんしゅしゅぎ?
2014年6月1日 | 雑記

(新聞読んでない、ニュース見ない若者のためにまたまたおせっかい)

朝日新聞の論壇時評

僕らの民主主義  ~少数派からの「ありがとう」~  高橋源一郎

の記事から要約

 

” 3月18日、台湾の立法院議会は学生たちによって占拠された。

大陸中国と台湾の間で交わされた、相互に飲食業、金融サービスなどの市場を開放する「中台サービス貿易協定」に反対していた。

占拠のきっかけは、前日、政権を握る国民党がその協定発効審議を一方的に打ち切ったことだった。

学生たちは、規律と統制を守りつつ、院内から国民に向け、国民の支持を受けながら24日間アピールを続けた。

 

占拠が20日を過ぎ、学生たちの疲労が限界に達した頃、立法院長から妥協案が提示され、葛藤とためらいの気分が学生たちの間に流れた。 その時、ひとりの学生が手を挙げ、壇上に登り「撤退するかどうかについて幹部だけで決めるのは納得できません」といった。

この後、リーダーの林飛帆がとった行為は、驚くべきことに丸一日かけて、占拠に参加した学生たちの意見を個別に訊いて回ったのである。

最後に、林は、妥協案の受け入れを正式に表明した。 すると、再度、前日の学生が壇上に上がった。

かたずをのんで様子を見守る学生たちの前で、彼は次のように語った後、静かに壇上から降りた。

 

「撤退の方針は個人的には受け入れがたいです。 でも、ぼくの意見を聞いてくれたことを、感謝します。 ありがとう」

 

それから、2日をかけ、院内を隅々まで清掃すると、運動のシンボルとなったヒマワリの花を一輪ずつ手に持って、学生たちは静かに立法院を去って行った。

 

民主主義は「民意」によって、なにかを決定するシステムだ。 だが、「民意」をどうやってはかればいいのか。 結局のところ、「多数派」がすべてを決定し、「少数派」は従うしかないのだろうか。

学生たちが私に教えてくれたのは、「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステムだという考え方だった。 彼らが見せてくれた光景は、彼らが勝ち取った政治的成果よりも、重要だったように、わたしには思えた。

 

フィンランドの、原発からの廃棄物処理施設を描き、大きな話題をよんだ映画「100000年後の安全」に、忘れられないシーンがある。

その地下施設の中心部で、急進的な反原発派でもある監督が、直接施設の責任者たちに質問をぶつける。

厳しい質問に、時に、彼らは絶句し、苦悩し、それでも逃げることなく答え続けようとしていた。 この映画が可能になったのは、「すべて」を見せることを、フィンランド政府がためらわなかったからだろう。

わたしが、原発に反対するフィンランド国民だったとしても「あなたたちの考え方には反対だけれど、情報の公開をためらわず、誠実に対応してくれてありがとう」といったと思う。

そこに存在していたものが民主主義だとするなら、わたしたちの国には、まだ民主主義は存在していないのである。

 

台湾の学生たちの運動に前後して、日本の学生たちが、「特定秘密保護法」に反対するデモを計画した。 ふだん、政治とほど遠かった学生たちは、ツイッターやフェイスブックで連絡しあいながら集まり、デモのためのCM動画を作った。

一つは、まるで青春映画の予告編のようで、もうひとつは、ミュージックビデオのようだった。 どちらにも、楽しさとユーモアが横溢しているように思えたが、そのCMを見て「デモは『楽しみ』ですか」と疑義を呈する人がいた。

政治に参加することは、苦しみばかりでつまらぬものだ、という「常識」がある。 そうなのだろうか。 私たちのなかで、「民主主義」は、一つの、固定した「常識」になっていないだろうか。

CMの最後に、画面の外から「民主主義どっち?」と問いかける声が聞こえてくる。 画面の中の女の子は、自分を指差し「こっち!」というのである。

 

民主主義の原理を記した、ルソーの『社会契約論』には、不思議な記述がある。

ルソーによれば、「一般意思」(民意)は、意見の違いが多ければ多いほど、その真の姿を現すことができるのである。 そこに垣間見える民主主義の姿は、わたしたちの「常識」とは異なっている。 もしかしたら、わたしたちは、「正しい」民主主義を一度も持ったことなどないのかもしれない。

「民主主義」とは、ドイツの思想家、ハーバーマスの言葉を用いるなら、 一度も完成したことのない「未完のプロジェクト」なのだろうか。 ”

 

 

法政大学総長の田中優子氏はこう語る。

”  高度成長期には国という傘、企業という傘、家という傘があって、その下にいながら努力することで、人は自分を伸ばすことができた。 しかしその傘はどんどん小さくなっている。 傘に入れない人は、いくら努力しても報われない。 この状況における社会活動とは、傘の外に場をつくることだ。

今までの高等教育機関の役割は、卒業生たちを大きな傘の下に押し込む事であった。 しかし今や全員が縮んだ傘の下に入れるとは思えない。 そして高等教育機関が縮んでいく社会を黙ってみているわけにもいかない。

教授に就任したばかりの湯浅 誠氏はコミュニティーオーガナイザーが必要だと語った。 仕事の場合は合意形成が絶えず必要となり、現場とトップのあいだに立って関係を調整する能力や、現場からの声を聞いて組織に合理性を与える役割が必要になる。 コミュニティーオーガナイザーの能力は、良質の企業をつくるためにも必要なのだ。

湯浅さんは「水戸黄門型民主主義」という言葉を使っている。 勧善懲悪による正しい裁決がなされ、すべての人が平伏する、という社会でのみ成り立つ民主主義のことだが、むろんそんな社会はこの世にない。 ないのだが、日本にはそれを求める土壌がある。 そこにヒーロー待望が形成され、 何も考えなくても、自分の都合良い世の中を与えてくれることを期待する。

「反知性主義」という言葉がある。 自ら知性へ敵意を持つことと、国家が国民から知性を奪うことを意味する。 いま何も考えたくない人々は、自力で調べて知識を獲得することなく、感情を刺激する根拠のない情報に興奮し、それを自分の考えとしてツイッターで広め、時にはそれに従ってデモをし、暴言を吐き、それを映像的な「ネタ」にしてブログで公開し、自己顕示欲を満足させる。 反知性的なその閉じたサイクルは、主張の内容に関わらず様々なところで起こっている。

大学はこのことに向き合わねばならないだろう。

大学とは、自ら事業の確認をする手順を学び、できるだけ正確な情報を得るリテラシーを培うところだ。 また、一過性の感情を越えて論理的に語る経験を得て、議論して異なる考えと出会い、言語化して自らの無知を知ってさらに知性に磨きをかける場だ。

さらなる少人数教育によって傘の中でも外でも発揮できる、社会を変えるための知性を磨かねばならない。 ”

 

 

 

こんなお話でした。

しばらくゆっくり眺めながら、自分の中で醸成されたし。

 

 

 

 

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