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共依存世界の楯と槍
2014年7月15日 | 雑記

「健常者が他人の助けを借りずに生活できているのは、多数派に合わせて設計された社会システムのおかげです。 下支えするモノや制度、つまり依存先が多い。 逆に障害者は、依存先が極端に限られている。 本来、人は何かに依存しなければ生きられないのだから、自立は錯覚です。 問題は依存先の数の差です」

 

この見出しの言葉で、この記事を読む動機は整った。

東京大学先端科学技術研究センター特任講師 熊谷晋一郎氏。 77年に生まれて以来、脳性まひで車いす生活を送り続けてきた小児科医である。

 

”  東日本大震災のときに、研究室から逃げようとしたら、エレベーターが動かない。 幸い同僚が背負ってくれ、逃げることができたが、自分にはエレベーターという移動手段しかないというダメージの大きな体験をした。

また高校までは母親が授業にも参加し、トイレから食事、移動などすべてをサポートしてくれていたが、だんだんと母親が死んだらどうなるのかと考え、距離を置く必要があると思い、上京した後は、部屋をバリアフリーに改装し、介助の手も確保した。 そして不便だが自由を満喫した。 そして将来も楽観していた。

医学部を卒業し、小児科の研修医1年のとき、壁にぶつかった。 自由に動かない私の手と腕では、採血の注射が打てなかった。 患者の親から主治医を代えてくれと言われた。 ショックでした。 生まれて初めて障害がなかったらよかったと思いました。 自分のような者が医者をしていていいのかと周りに助けも求められなかった。

状況が変わったのは職場を変わってから。

非常に多忙な病院で、いきなり当直を任されました。 私は、これはできません、こちらを手伝ってもらえればここまでできます、と申し出た。 注射に介助スタッフがつきました。 私に内緒で、同僚たちがサポート態勢を話し合ってくれた。

自分ひとりではすべてできないと示すこと、助けてもらう依存先を多く持つこと。 自立と依存の考えの核は、このとき固まりました。

 

弱さをあらわにすることは、相手に支配されるリスクを伴います。 依存と支配とは紙一重です。 力でねじ伏せる支配にせよ、庇護的で狡猾な支配にせよ。

弱者の権利を保障する社会制度が一定程度整ってきた結果、逆に平等の認定が難しくなりました。 自分のニーズも、周囲の配慮も、何が合理的な範囲なのか、わからない。 個別に事情は違いますし、平等とは何かの解がないからです。

そういう中、たとえば人間関係が築けずヘルプを出せない人を排除する動きも出てきている。 職場での自立は、正直私も完全に実現できたわけではなく日々、格闘しています。

 

子どものころの、母親からのリハビリは熾烈で、私が泣き叫ぶので雨戸を閉めてやったほど。 なぜ耐えられたのか。 ゆるぎない愛情を確信していたからです。 一種の共依存と呼べるかもしれません。 強い絆で結ばれた密室の関係は依存が深まり、すごく怖いことです。 介護苦殺人や子どもの虐待など、痛ましい事件は密室のぎりぎりの状態から起こりやすい。 だからこそ依存先はできる限り多く、薄く広くが肝心だと言いたい。

 

東大に入学してしばらくたった頃、障害者自立運動の先輩たちから言われました。 「みんなおまえのこと嫌いだった」と。 エリート障害者がきたと警戒したらしい。 それから酒を飲んでは議論しましたよ。 あなただって、障害者全体からみれば恵まれたグループに入るじゃないか、健常者の側とかかわりを持つこともあるだろう。 支配構造から免れている人間は皆無だ、と。

支配構造は、めまいがするほど複雑です。 状況次第で立場も変わる。 多くの場合、明確な敵はいないんです。 そこで犯人探しをしてしまうと、問題を単純化、矮小化して、悪循環になりかねない。

 

小児科の現場では、一人で子育てを抱え込みすぎている親に出会います。 共同研究をしている薬物依存症の女性たちの話では、幼い頃の虐待の傷から他人を頼れなくなり、過剰な自立心ゆえに薬物に依存していく傾向もあるそうです。 社会のいたるところで、依存先の数の格差が存在する。 自助拡大は明らかにおかしいと思います。 再分配を進めるための社会保障を充実させて欲しい。 財源確保のアイデアを本気で議論する必要がある。 また依存先を増やすという私の主張で言えば、市場やNPO、地域共同体などに幅広く分散させたほうがいい。 国だけに依存すれば、管理されるリスクもありますから。

日本の最も深刻な問題は、政治にインフォームド・コンセント(説明と同意)があまりにもないことでしょう。 議論をして、どこに不確実性があり、それでも決定するに至ったのはなぜかを共有する。 現状では黙って信じろという医者に手術をされるようで、とても心配です。

 

弱者も与えられるだけの立場に居直らず、専門知識を身につけなければ対等な関係は成立しません。 社会保障の財源の議論について、これまではあきらめるか、情念を押し通して終わっていましたが、グランドデザイン作りに当事者が関わることが必要だと思います。 ”

 

 

という内容に触れ、大いに私の体験を通した情報と一致していることもあり、あいあいキャンプ活動を通して感じてきたこととも相通じるもので、そしてその先にある世界を垣間見せてくれたような気持ちです。

学ぶべき論点は、この中に無数にあるのですが、絞り込みます。

 

本当に不思議なことなのですが、障害のある人同士の間でも、障害の種類が違うといっては差別したり、区別したり、障害の程度が違うといっては差別したり、区別したり・・

本当は、障害を持って生まれたもの同士、一番の理解者であり、協力者である人同士でさえ、こんなことがあるのです。

それが見た目等は、俗に言うところの「普通」の健常者同士ともなれば・・

それが身近にいない人であり、交流もない人の住む国同士ともなれば・・

いやはや言わずもがな争いのお好きなことで・・

 

熊谷氏のいうところは、私にとってこんな風に広がりを持って聞こえてくるのです。

 

『支配構造は、めまいがするほど複雑です。 状況次第で立場も変わる。 多くの場合、明確な敵はいないんです。 そこで犯人探しをしてしまうと、問題を単純化、矮小化して、悪循環になりかねない』

家庭の中でも、 会社の中でも、 国同士の関係でも、 友人同士でさえ、 支配構造は本当に複雑ですね。

しかし、 本当に心の底から、自分ひとりでは生きられないと認められたときに、 素直な気持ちで「助けて」と言えるのではないでしょうか?

それはそれは本当にお互い様として・・

そしてその関係先は、 それはそれはたくさんの人々や、国々という依存先があるということであり、 その依存先の選択肢の多さゆえ、 健常者と呼ばれている私たちは、実際のところあまり不自由な思いもなく生きていられている。

その当たり前の感覚は、 本当に当たり前なのか?

いざ、私たちが重い病気や障害を負うことになってから気づいたのでいいのだろうか?

 

一人では生きられないと認めること、 それはすなわち、 今の自分や、家庭や、友人知人や、様々な会社や国や、環境に感謝するということではないのか?

 

『弱者も与えられるだけの立場に居直らず、専門知識を身につけなければ対等な関係は成立しません。 社会保障の財源の議論について、これまではあきらめるか、情念を押し通して終わっていましたが、グランドデザイン作りに当事者が関わることが必要だと思います』

私たちは全員が依存者であり、弱者でもあるということなのでしょうが、 だからこそ一つ一つの事柄に対して知識を持つ努力が必要なのでしょう。

私たちは今まで、 本当に「知ろう」としてきたのでしょうか?

知らないことのほうが「楽だから」、「めんどくさいから」で見ようとはしてこなかったのではないのか?

知らないことを楯にして、感情という名の情念の槍で、自分以外のものを攻撃し続けてきてはいないのか?

 

車いすの実践者から、実は障害の有無など関係なく、すべての人間に対して投げかけられたひとつの視点論点。

「私」は、 どう答えることができるのでしょう?

「あなた」は、  ・・・

 

 

 

 

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