遊び惚けている間に、
お盆の期間も、終戦記念日も過ぎた。
好きなことをして、
自由に働くことができて、
大いに遊べて、
食べて、
会いたい人に会って、
語って、
それだけではなく、
ことごとくそれらのことに対して、
反対の行動をとることだって自由だ。
そんな「多様性」が可能であるのは、
「平和」であるからだ。
「戦時」であれば、
「選択」の余地はない。
ある人が表現していたことが耳に残る。
“ 世界で初めて、日本の一般庶民の上に無数の爆弾の類が投下され、
最後は権力者、一部の科学者がどうしても生身の人間を使って「実験」したかった「原爆」を投下した。
そのせいで数十万人規模で国民は傷つき、無残に死んでいった。
そのあまりにも理不尽すぎる人間の「姿」を見た世界は、
恐れおののき、その「使用」に「抑止力」が生まれた。
それから70年以上、どこの国民の上にもそれは投下されていない。
この国の、あの多くの「犠牲者たち」のおかげで、
世界は、あの生身の人間を使った「実験」を行なわずに済んでいる。
私たちが、
当たり前のように使ってきた「平和」は、
その方々たちの「おかげさま」で成り立って行っているといっても過言ではない。 ”
その言葉に触れたとき、
名も知らぬ、数えきれないほど多くの犠牲者の方々が、
「平和」の「創造主」のように思えた。
とめどなく、
多くのものを、
与え続けている創造主である。
彼らはいまだに、
いや、ずっと共に、
私たちと生き続けてくれている。
「自分」が、という前に、
「ご先祖様」ありき、
「諸先輩方」ありきという、
小さな気持ちを失わないでいること。
このお盆の期間にとどまらず、
いつだってそこに帰る気持ちを、
持ち続けたいと思う。
「おかげ様」としか言いようのない「今」に感謝しつつ。