青葉土地コーポレーション 青葉土地コーポレーション
ブログ
匂いの系譜
2012年2月25日 | 雑記

本日午後、久方ぶりに剣道形の師匠、剣道教士八段 加茂 功先生のお店(加茂武道具店)へ出かけてみた。 剣道形で使っている小刀を納める袋を購入するためである。  まあ久しぶりにゆっくりお話したくなったから・・   というのが本心かもしれませんが・・

そこではいつものように本当にいい時間を過ごさせていただいたわけですが、 いろんなお話の中で、師匠が若かりし頃の師匠である方が亡くなった後に、そこの奥様より「この本は加茂君が持つべきものよ」 と言って手渡されたものが、最後の剣聖と呼ばれた山田次朗吉という人物が書いた「日本剣道史」をはじめとする全集であった。  近代剣道にも影響を与えるものであるばかりか、その博学たるやジャンルを選ばず、一つに秀でるということはかくもこのように万物に通じるものかというエピソードを加茂先生からお聞きした私はさっそく帰宅したのち調べてみました。

いくつかの紹介文に出会わせていただきましたが、とてもシンプルにしかも丁寧にまとめられた文章をご紹介させていただきます。  ただ、この作者のお名前が分かりませんでした。  無断転用お許しください。

 

明治の剣聖山田次朗吉

 

“ ある方面で,心を研ぎ澄まし,道を究めようとすると想像を絶する存在になるというお話をひとつ。

幕末の剣聖といえば男谷(おたに)精一郎である。 この名は時代小説を読むお方ならどこかで聞いた名であろう。 直心影流の名手であるが,その道場で師範代をつとめた榊原鍵吉もまた知る人ぞ知るという人物だ。 榊原は幕末から明治27年まで生きた。

 

今から述べる山田次朗吉はその弟子で,明治の剣聖と言われた人物である。 彼は幼少時代から脆弱な体質であったが,それだからこそ人一倍壮健な体への願望が強かった。

 

千葉県のある道場開きに招待された榊原鍵吉を見に山田(18歳)は出かけた。 風采が上がらぬ榊原(当時55歳)は剣をとって道場に立つと一種異様な雰囲気が立ち上り,ついで県下有数の強豪剣士たち14人が次から次へと向かっていったが,瞬く間に打ち据え,とうとう汗ひとつかかなかった。 そんな榊原老人に山田は魅了された。

 

「これだ!」と感じた山田青年は東京の榊原道場に入門を乞いに行った。 何度も断られたが,ついに「あの振棒を10回も振ってごらんな」と言われた。 それは鉄棒で長さ180cm重さ60キロもあったという。 榊原は一旦その場を離れて出かけたが,夜帰ってくるとまだやっている山田を見て,入門を許した。 やっているといっても棒に腰を取られて,ふらふらとしているだけである。 「いいかい,これが10回は振れないと剣術はできないからね」と山田の見ている前で,何と50回も振り下ろし息も乱れていなかった榊原を見て山田は仰天した。

 

数年後,赤樫で作った振棒(11キロ)を1日に二千回も振っても疲れを覚えなくなっていた山田の姿があった。 技術でも道場内では彼にかなう者がいなくなっていたし,榊原道場の山田といえば東京で知らない者はいないというくらいになった。 「俺は強い!」という自信が慢心にやや変わりつつあった頃,榊原が突然道場内に現れ,ニヤニヤとして「山田さん,久しぶりで一本やろうか」と言う。 そして見事に60歳の師匠に一撃を食らいひっくり返った。 これが雨が降るたびに続けられた。 何度も倒されるうちに自分の慢心に初めて気がついた山田であった。

 

それからは60キロの鉄棒に挑み始めた。 最初10回を振ったときに失神したほどであったが,それから2年経ち自由自在に振り回せるようになった。 その努力が尋常のものではない証拠である。

 

榊原が死ぬ前年,二人で陸軍の道場へ剣術指南に出かけた時のこと。 雪の道を歩いていた榊原の下駄の鼻緒が切れ,よろめいた。 その瞬間「先生」と呼びつつ片手で師匠の体を支え,もう一方の手で自分の下駄を脱ぎ老師の足元へそろえた。 一瞬の出来事であった。

 

弟子の顔をまじまじと見つめた老師匠の目に見る見る涙があふれ, 「山田さん…できたねぇ」 とつぶやいた。 つまり「極意に達したねぇ」の意味である。 明治26年のことである。

 

その後,師匠が死んでからも山田は日々精進をした。 剣道だけでなく勉学もである。

 

老人になってからの山田は天地自然の中に生きているという境地まで達した。

 

大正8年のことであるが,4年後の関東大震災を予言した。 大正9年の正月に年始の挨拶に行った弟子に 「みなおめでとうというが,何がおめでたいものか。今に東京の市民が大勢死んでしまうのに…」 と言っているし,彼を取材した記者には「大正13年頃までに,この帝都に一大天災が起こる。 おそらく大地震かと思う。 7~8万人は死ぬだろう」と語っている。

 

大正7年の春にはその年内に起こる世界的流行感冒(インフルエンザ)を予言している。

剣の修行による「感」のすばらしさである。

この頃,彼はこんな言葉も残している。

 

「誠におのれを捨て切ることができると,鉄砲の弾も当たるものではない。 私はここ(東京都内)にいて,太平洋の波の音を聞くことができる」

 

そんな彼のことだから,客が出された菓子を食べようと思った途端,山田老人が手にとって差し出したということはざらにあるという。 またある客が帰ろうとしたとき「まぁ待ちなさい。 後10分もすれば○○君が来るから一緒に語り合おう」というのだ。 約束でもあるのかと聞けば,「いやなにね,どうも30分くらい前に○○君が阿佐ヶ谷の自宅を出てこちらにむかっているような気がするものだから…」。 呆気にとられている客の前に当の本人がやがて現れたという。

 

剣の修行の傍ら,山田老人は勉学にも励んだ末,やがて大正11年,名著「日本剣道史」を発刊する。 その中で,彼は剣の修行を通じて人生の仁義道徳を学ぶというテーマを力説している。

 

「剣道は外面の技術と内面の精神の2つに分かれるが,私は内面の方を尊びたい。 内面の成熟を極めぬと剣道は魂のない木像のごとき死物となる。     …剣道とは,まずわがままの心を捨て素直な心を養う事をもって不動の目的とする。  …剣道とは剣を取るときのみだけではなく,社会,日常一般において存在するものだ。 それでなくてはこの道を究めることはできない。 剣は太刀(たち),すなわち断つという言葉にあてた文字であって,世にいう十悪(わがまま,どん欲,嫌疑,慢心など)を断つことであり,そうすれば人間本来の「清明心」に帰するものである。」

 

味わい深い言葉である。

 

彼以後,剣聖と呼ばれる人はいない。 ”

 

 

東京商科大学(現在の一橋大学)剣道部の監督も務められていたようであるが、部員は恐ろしく厳しい練習に耐え忍んで修練したようであるが、その理由がまたすごい。

厳しい練習の後、山田次朗吉氏のそれはそれは広範囲にわたる見識知識の話が聞ける喜びがあるからこそ、その練習に耐えたというエピソードがあるそうだ。 生徒がどんな質問をしても期待以上の答えを必ず与えることができたということである。    文武両道、 語るは易し・・

すごい人物が実はかれこれいたのである。  この国には。

ところが総じて真に優れた人物は表に出すぎない。  ○○連盟だの、●●協会だのという団体組織役員には一切名を連ねない。  ほとんど一匹狼的に静かに生きることを自ら選択している。

だから知らないのである。 こちらから知ろうとしない限り。

ここに本物の哲学があるように思える。

今日も本当に刺激的な一日であった。

本物の匂いのする人に会うと、 本物にひとつ出会える。

こうやってくり返していくと、 どんどん自分の至らなさや不甲斐なさ、未熟さや可能性、考え方や行動指針、 そのようなものが少しだけど見え隠れしてくる。

それが嬉しい。

尊敬できる人生の先輩が居るということ、  こんな幸せなことはない。

私の一つの未来であり、 可能性が生きたまんま目の前に存在してくれているのだから ・・・

ありがとうございます。     出会って下さいまして ・・・

 

 

カテゴリ
月別アーカイブ
記事検索