人の人生は様々である。
一見順風満帆のように見える人でも、思いもよらない事実を抱え苦しみや悲しみと共に生きていたりもする。
他人から受ける苦しみもあれば、身内の中に苦しみを抱えていることもある。
本当に様々であるのだが、同じような苦しみの世界にいるのにもかかわらず、その苦しみを水に流すがごとく生きている人もいれば、嘆き苦しみの海に溺れながら過ごしている人もいる。
条件的には同じような環境なのだが、どうしてこうも生き方が違うのだろう? と、自分のことも含めて観察してみると、どうやら起こっている事実に対する「反応」が違うだけかもしれないということに気づく。
事実は同じたけど、その反応、受け止め方の差が「苦しみ」「悲しみ」「平静」の差となっているようなのである。
どんなに辛いことがあったとしても、死ぬまでその状態を維持するかどうかは、その人が選択できるということである。
辛い状態を維持すべく、「意識」を固定化して生きるのもよし、辛い事実とそれに対する「反応」は別のものだと気づき、そこに「意識」を置かず、流していくこともよし。
どちらだって選択できる。
事実が同じだと、みんな同じ気持ちで生きていくものだという思い込みはないのか?
多くの人がそう思うのだからという思い込みはないのか?
そんな風に少し違った視点で自らを見てみることも大切なことのように思えます。
あまりにも「同調」しなければいけないような雰囲気、思い込みの中で生き続けてしまうと、人と「違う」という大切なことに気づきにくい体質になるのかもしれません。
私の場合、昔からあまりに回りと違いすぎてもうどうしていいかわかりませんが・・(笑)
「同調」と「違い」どちらが大事かということではなく、そのバランスなのですが、「議論」するという経験値が少なすぎるこの国の文化の中で求めるのは難しいのかも知れません。
大人たちの議論を聞いても、「右」か「左」か、「正義」か「悪」か的な極端なグループ分け的結論を求めたがる人が多いように思います。
もっといろんな選択肢があるよと示してあげるのが、大人の役割のような気がします。
そのためにも、自分の体験値を増やしていく「行為」「行動」を積み重ねていこうと思います。
まあ死ぬまでやり続けても終点は見えないことは承知しているのですが、かといってやめてしまっては恐ろしくつまらない人生になることも承知していますので・・
でもそういう生き方を自然にしている人は、なんとなく自然に集まってきますねぇ。
「類は友を呼ぶ」 ですか?
今年も新しい同士と出会いそうです。