「大人」が手をさしのべる? ちょっと待ってくれ。大人とは誰だ。 中島らも
人というのは、迷い、くじけ、おろおろしたあげく、「生きるというその路上において、たった一人でぽつんと立ちつくしている子ども」のようなものだと、作家は言う。
だから「大人」なんて存在しない。
「大人」とは、その「迷い子」が、何をまちがえたか、「愚鈍と忘却と教条」でみずからを弄んだ末のその「なれの果て」でしかないと。
この言葉と出会ったとき、素直に共感できた。
私も常々、自分がどうして世間でいう「大人」になれないのだろうと、悶々としてきた。
心に素直に生きていると、どうやっても「子ども」の自分が顔を出し、「大人」になろうとする自分の邪魔をする。
そんなことを繰り返すうちに、かつては立派な子どもであった自分が、それらをすべて捨てて、あたかも別な存在のような「大人」になろうとしても、無理であることに気がつく。
子どもである自分を育ててこそ、
すなわち、子どもである何物も失わずに、
いや尊重し、
その上に付加していくものが「大人」の一部かもしれないと。
そう考えると、常に自分は「子ども」であることを受け入れ認めることができ、
だからこそのその未熟さを、成長させたいと謙虚にもなれる。
ところが、自らは「大人」であると豪語する方々は、
すでに自分で、「成長」「発達」を放棄したと、のたまっているように聞こえてならない。
昨今、立派な「大人」であるはずの方々が、
罪のない人々を、凶器と化した乗り物などで傷つけている。
自分は今だ未熟な「子ども」であるとの、謙虚な「自覚」があったならば、
もう少し違った未来を作り出せたのかもしれないと思う。
どこかで自分は「大丈夫」、まだ間違いのない「大人」だから、と思い込んではなかったのか?
あくまでも、
「自戒」を込めてもう一度自らにも問いなおす。
私は無理に「大人」のふりをしようとしていないか?
ただただ今だ、子どもであることを、忘れようとはしていないか?
迷い子のなれの果ての自覚はあるか?
大人と称する人々こそ、
自らに問いかける時が来ている。