『音楽が音楽であるのは、それを音楽と受け取る耳があるからだ。』
相倉久人
鷲田清一氏は解説する。
“「聞く耳さえあれば、波の音や街の雑踏も立派に音楽として成立する」と、相倉氏は言う。
音楽は、奏でる人、聞こえる音と、それに耳を傾ける人の共同作業としてある。
このことは、深い悲しみの中に沈む人の語りについても言える。
言葉は、聴く人の、祈るようにして待つ耳があってはじめて、ぽろりとこぼれ落ちる。”
まさに言葉が真理として振動している。
この周波数に同調できているだろうか?
ただ音が聞こえているのと、その中に仕舞われた「声」が聞こえるのとでは次元が違う。
虫には虫の「声」があり、雑踏には雑踏の「声」がある。
波に「声」が在るように、
感情を持った「人」であれば、在るだけで「声」がある。
その声が聞こえるのか、聴こうとするのか、
受け取る側の「主体」によって天と地ほど違う世界が共存する。
この世の仕掛けと仕組みに、
今日の私はどう反応するのか?
宇宙と世界は等しく動いているが、
私の心はどう在ったのか?
変化続ける心であるがゆえに、
「意思」をもって今日も在りたい。