11月1日 日曜日、 かみさんとお一日詣りに出かける。
自宅の神棚に感謝奉納の後、軽く朝食を済ませ、徒歩にて居住地の氏神様である伊佐爾波神社まで移動。
道中の変化なども観察しつつ、10分少々で到着。
いつものごとく、感謝奉納させていただきます。
取って返し、今度は車にて会社の氏神様のある雄郡神社へ移動。
ここもいつもと同じように、ご挨拶させていただきます。
その足で会社に立ち寄り、会社の神棚へも毎朝のように感謝奉納。
最後にお山の神様まで30分かけて移動し、感謝奉納。
毎回思うことですが、こうやって感謝奉納ができることにとても喜びを感じてしまいます。
生かされていることに、素直な気持ちで感謝ができることに、なぜか不思議なくらい喜びが湧き上がってくるのです。
感謝できることが、ありがたいことだと思えてしまうのです。
なぜなのかはわかりません。
が、
喜びが生まれる行為をわざわざやめる理由もありませんし、そのままの素直な気持ちで続けたいと思います。
自然と乖離した人間が手放してきたものの一つに、「生かされている」という気持ちがあると思います。
自分で「生きている」感が強ければ強いほど、逆に、感謝することとは程遠いことが身の回りに起こるような気がします。
自然という大きな力が、そのことに気づかせてくれようとして、「逆」のことが起こるような気がします。
それが、不幸せ感や、ストレスの原因になっているのかもしれません。
こんな言葉があります。
『感謝とは、やるべきことをつくしているという心の喜びをもっているということです。
やるべきことをつくしているという自分の良心の満足が、
まわりに対して感謝となって表れてくるのです。
感謝の心で接していくとすぐ道は開けます。
感謝は人への信頼をよびもどしてくれるものです。
もし今満足していないとしたら感謝の気持ちがたりないからです』
感謝について、見直してみる時節が到来しているのかもしれませんね。