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更生する社会へ
2013年2月6日 | 雑記

犯罪学者の浜井浩一さんのお話。

怖い人たちがうごめいていると思っている刑務所という場所。 ところが現在そうでもないらしい、というかこのままでは私たちの居場所にさえなりそうな気配さえ・・・

 

“ 現在毎日拘置所から受刑者が送られてくるが、そのほとんどが高齢者、知的・身体的ハンディキャップを抱えている人など、ちゃんと働けない人たちばかりだ。

刑務所の居室は満杯なのに刑務所内の工場は人手不足で、拘置所に対して「ちゃんと働ける受刑者を送ってくれ」と苦情を言う毎日。

どう考えても、仕事に就けず、社会のどこにも居場所がない人たちが刑務所に送り込まれている。 なぜこんなことが起こるのか?

理由の一つは累犯化。 軽微な犯罪でも繰り返されれば起訴して実刑にせざるを得ない。 知的障害のある受刑者の一人は、40歳の時に一念発起して、以後20年くらいは日雇いで働いて更生していた。 ところが高齢になり、公共事業も減ったため仕事を失い、仕方なくホームレスになり、食べ物を万引きして捕まった。 これは執行猶予が付いたが、だからといって彼を取り巻く環境は変わらない。 ホームレスに戻り、さつま揚げ1個を盗んでまた逮捕。 今度は執行猶予中の犯罪だから自動的に実刑となり、長期服役を余儀なくされる。

刑事司法と福祉の連携がないため、高齢の受刑者が急増するという世界的にも異常な事態が生じている。

 

もう一つの理由は、刑罰には、消費税と同じような逆進性あるということ。 同じ罪を犯しても、社会的弱者と強者とでは刑罰の適用のされ方が全く違う。 厳罰化で増加した受刑者は家族のいない失業者です。 一般的に、家族や仕事があって社会基盤がしっかりしている人は、被害弁償することで示談も得やすい。 教育水準が高ければ検察官や裁判官の心証を良くするような謝罪や自己弁護もできる。 このため、よほど悪質だったり累犯だったりしない限りは実刑にはならない。 ところが、無職だったり高齢だったり障害があったりして社会的な基盤が弱い人は、被害弁償ができない場合が多い。 身元引受人がいなかったり、他人とうまくコミュニケーションがとれなかったりするため、反省がなく再犯の可能性も高いと判断され、実刑を受けやすい。

最大の問題は社会のセーフティーネットが壊れていること。 仕事も身寄りもなく、福祉にもつながりを持たずに社会で孤立している高齢者や障害者は、ホームレスになるか万引きや無銭飲食を重ねてでも生きていくしかない。

受刑者は減っていますが、刑務所内で死亡する高齢者は増えている。 病院や施設は受け入れを拒否できるが、刑務所はできません。 だから社会のいろんなところで拒否された人たちの最後の「居場所」になってしまっている。

00年代の自民党政権は、治安が悪化しているのは日本人のモラルが低下しているからで、その原因は学校や家庭の教育にあるという「物語」に落とし込んだ。 モラルの問題イコール個人の問題であると自己責任論に還元してしまえば、政治は責任を回避できる。 ただ当然のことながら、それでは再犯は防げない。

民主党政権になり、社会的弱者に視点を当て「居場所と出番」をつくって社会的に包摂していこうとしたことは間違いない。 刑務所を出た高齢者や障害者を福祉につなぐ画期的な「地域生活定着支援事業」も09年にスタートした。

安倍政権には、よかった部分は引き継ぎ、事実や根拠にもとづいた政策を実施してほしい。 貧困、自殺、犯罪の根っこはつながっている。 今は普通に生活している人だって、いつそういう状況に陥るかわからない。 それは心の問題ではなく、社会に居場所があるかないかの問題。 人は一人で反省できても、一人では更生できないのです。

 

世界の中でみれば治安がいいとされる日本ではあるが、欧米の研究者が言うところの「罪を憎んで人を憎まず」の寛容の精神と順法意識の高さではなく、調査の結果、行政全般に対する信頼がとても低いが、「悪いことをすると罰を受ける」と思っている人の割合は、世界トップ。 すなわち刑事司法を信頼してないのに、なぜ悪いことをすると罰を受けると思っているのか?

それは恐らく地域コミュニティーや会社コミュニティーなど「仲間内」での相互監視にさらされているからだと考えられる。 村八分になるのは怖い、自分が怖いのだから他人も怖いだろう、だから変なことはしないはずだという意識の集積が「安心社会」を築き、治安が守られてきたのかもしれない。 しかし、それは他者に対する信頼をもとに築かれた社会とは根本的に違う。 だからこそ、仲間ではない人間に対する警戒心は強く、排他的だ。 「赤信号みんなで渡れば怖くない」と、「人を見たら泥棒と思え」。 この相反する二つが、日本社会のありようを端的に示している。

しかし、その安心を担保してきたコミュニティーは崩れてきている。 もともと他者への信頼が希薄な上に、相互監視による安心を失ったら、残るのは他者への不信と怯えだけになり、社会はうまく回らない。

刑事司法や防犯カメラの監視機能を強化することで「安心社会」を外側から補強するか、それとも信頼に基づく社会を築くことを目指すか、道は二つだと思う。

 

理想としては信頼社会だろうが、世界調査の結果の「他人とどのくらい付き合っているか」「どれくらい社会活動に参加しているか」でダントツにどちらも少ない国民である日本人。

そもそも他人と触れ合っていない中で、他者への信頼を育もうと言っても無理でしょう。

昨今の、学校現場でのいじめに刑事司法が介入していく現状を見ても、「安心社会」を外側から補修しながら対策を進めていく公算が大きいのではないか。 短期的にはそれで仕方がない面もある。

ただ、本当にそれが私たちが望む社会なのか、一度きちんと考えてみる必要があると思う。”

 

 

社会的弱者と呼ぶこと、呼ばれることに抵抗があるないにかかわらず、そうした「側」からの視点で世界を見渡した時、初めて見えてくるものがある。

私自身、19歳の時から障害者と呼ばれる人々と出会い、ともに生活することから初めて見えてくるものがあった。

そこからしか見えない社会があった。

そして、そこから気づいたものを基に形にしたものが、今の「はーと・ねっと・くらぶ」であり、「あいあいキャンプ」である。

 

強者の、強者による、強者のための社会づくりは進んだ。

これでもかといわんばかりに。

 

さて、

しかし従来の日本、すなわちほとんどが弱者と呼ばれる人々であった時代に、その人々はどうやって生き延びてきたのか、どうやって命をつないできたのか。

とてもリアルな人間関係の中からしか真のコミュニティーは生まれず、育つまい。

かつて当たり前であったそのことも、今や昔。

 

でも、

もう一度そうやって生きなおすしか、安心は生まれ得ないのかもしれないということに、今一度耳を傾けてみる機会かもしれませんねえ。

 

そこから行為に昇華していくことで、犯罪者のみならず、障害者のみならず、この国すべての民が更生(立ち直ること・生き返ること)するということになるような気がするんだけど、

こんな私は言い過ぎでしょうか?

 

しかし、

いずれ来る高齢者の「私」が、「私たち」が、刑務所の中で出会うよりは、

今から更生したほうがいいような気がするんだけどなぁ・・・

 

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