青葉土地コーポレーション 青葉土地コーポレーション
ブログ
条件ではなく、状態としてのしあわせ
2011年6月10日 | 雑記

5月の末頃母親が入院した。 約80歳なのでいろいろあるだろうと思うのだが、元気なもので父親の会社にほとんど毎日のように出ていた。 ところがこの数年前くらいから急に息が苦しくなる現象に見舞われ、2回ほど意識を失い救急車で運ばれたこともある。  体力が極端に落ちたというか、何かすると苦しくなるので何もできないような状態だったようだ。 さすがに老化以外の原因があるだろうということで本人も検査をいろいろ受けたりしたようだ。 その結果、心臓弁膜症という心臓の中の最後に動脈に血液を送り出すところの弁が壊れていた。 このことによりきれいな血液と汚れた血液が逆流によって混じりあい、脳やその他の臓器に必要量の酸素が供給されないという事態に陥り、疲れたり、気を失ったりという現象を引き起こしていたということであった。

そして手術によりその壊れた弁を取り除き、人工弁を移植することで完治するとのことでその手術と相成ったわけである。 が、 簡単にこんなことを書いているけど、そのために胸骨を真っ二つに切り開き、人工心肺装置をつなぎ、強力な薬で動き続ける心臓を停止させ、その間に弁の移植を行い、装置を付けていた穴をふさぎ、再び動き出すかどうか100%の確率はないという再鼓動のためのショックを行い、真っ二つの胸骨を縫い合わせ、体中につながるチューブの数々に囲まれながらICUで管理されるわけで、その状態の姿を家族は見るわけで、薬によってはれ上がった顔や体、機械とチューブに囲まれた姿はやはりなかなかのもので、数時間の手術は無事終わったという報告を受けてはいてもやはりなかなかのものでした。  
あなたたちの仕事はないから早々に引き揚げなさいというドクターの指示に従い、静々と帰路につき、翌日朝様子を見に行ったかみさんや妹が見たものは ・・・     

口にこそ昨日と同じチューブを差し込まれているものの、明瞭な意識で手を動かし何かを「しゃべっている」ようだったらしい。 そして夕方の面会では口からのチューブも取れ、普通に喋っていたという。 翌日私が面会に行ったときには体からのチューブも取れ、横にこそなっているが普段通りにおしゃべりしていた。

これには驚いた。  というのが、親類に同じ病気で昔手術を受けた人がいたのだが、生きるか死ぬかくらいの手術となり、結局半年間入院生活を送り、退院後もその後遺症に悩まされ、大変な思いの中生きていらっしゃる。 この事実を知っているがゆえに、この現代の医療技術(この病院は全国屈指の心臓外科医ではある)のすごさに圧倒された。 
人間の弛まぬ努力という成果は、実際恐るべき世界まで踏み込んでいるのだと思う。 あらゆるジャンルにおいて。
しかし、 だからこそ大切にしたいと思うことがある。

こうやって恵まれた環境で医療を享受できる場合もあるし、技術はあれども一瞬にしてその環境を奪われた場所においてはどうすることもできない場合もある。 もともと何もない環境もある。
これを「運」などという一言で片づけるわけにはいくまい。

「よかったー」 ではなく、「ありがとうございます」 で生き続けるべきだろう。
他人事としてではなく、私は自分としてそう思えた。 どんなことでも「ありがとうございます」 と言えるのであれば、どんな状態でも「ありがとうございます」 と言えるのであれば、 ひょっとしてそれは   「しあわせ」  なのではあるまいか? 
この世でしあわせになれることとは、 どんなことにも感謝ができること。

人が聞いたら笑われてしまいそうな、 そんなことを思うのでした。

明日の朝、母親は手術から2週間たたずに退院する。

カテゴリ
月別アーカイブ
記事検索