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正義を掲げ追い込んだ先に
2012年8月6日 | ボランティア活動

昨日のあいキャンミーティングが、本キャンまでの最後のミーティングとなった。  先週ミーティングに引き続き、8時間ぶっ通しでリハーサルとその修正、その他報告に費やされ、正直おいさんはバテバテのぶっ倒れ状態に近い。   それでも収穫は多く、とてつもなく大きな体験となったことは明白である。

私はあまり彼らをほめない。 それは私自身がほめられた経験がほとんどないことに起因していることもあるだろうが、それ以上に、ほめる以前にドタマカチワリたくなってしまうことが発生するからかも知れない。  まあこんな感じで12年目を過ごさせていただいているのだが、実際のところ、大体のメンバーはよくやっていると思う。  こんな世の社会や大人や環境に育てられた割には、この厳しい環境で本当によくやっているもんだと感心している。

そんな彼らもいよいよ2週間後に本キャンプを迎える。

何時になく、現場でのキャンパーへの配慮について、過去の振り返りを基にいくつかお話もさせていただいた。

そのことを今一度振り返る意味で、映画監督、森 達也氏のコメントを紹介したい。

 

“ 大津市いじめ自殺問題に関連する3人の中学生と、その両親や親せきの名前や顔写真、住所などが、ネットの掲示板などでさらされながら拡散している。 学校や教育委員会への嫌がらせや脅迫も凄まじい。

ただしこの正義は油紙のようにぺらぺらと薄い。 そしてたやすく炎上する。  試しにパソコンを起動すれば、数回のクリックで写真や住所が現れた。  「絶対に許すな」 「追いこめ」 など、書き込み量も尋常ではない。

イジメとは抵抗できない誰かを大勢でたたくこと。 孤立する誰かをさらに追い詰めること。

ならば気づかねばならない。  日本社会全体がそうなりかけている。  この背景には厳罰化の流れがある。 つまり善悪二分化だ。  だから自分たちは正義となる。

オウム事件や9.11をきっかけに自己防衛意識の高揚と厳罰化は大きな潮流となった。

ところが北欧は違う。

昨年7月にノルウェーで起きたテロ事件の被告の公判が、6月に結審した。  被告は最終陳述で民族や宗教を守るためだったと無罪を主張した。

判決は8月24日。 責任能力が認められたとしても、77人を殺害した被告の受ける罰は、最大禁錮21年だ。

なぜならノルウェーには死刑も終身刑もない。 最大で21年なのだ。

テロ事件の際に法相に就いていたクヌート・ストールベルゲと話す機会を得たが、彼は当時の犯行現場にいながら殺戮を免れた10代の少女の言葉を引用した。

「一人の男がこれほどの憎しみを見せたのなら、私たちはどれほどに人を愛せるかを示しましょう」

死刑を求める声は、遺族からも全く上がらなかったという。

法務官僚は言う。  「ほとんどの犯罪には三つの要因がある。」 「幼年期の愛情不足」 「成長期の教育の不足」 「そして現在の貧困」

「ならば犯罪者に対して社会が行うべきは、苦しみを与えることではなく、その不足を補うことなのです。 これまで彼らは十分に苦しんできたのですから」

ノルウェーの司法の総意は、善悪を二分化していない。  罪と罰の観念が根底から違う。  しかし、同時に被害者や遺族への救済は国家レベルでなされるのが前提だ。

寛容化政策が始まった80年代、治安悪化の懸念を口にする国民や政治家は多数いた。 でもやがて、国民レベルの合意が形成された。

なぜなら寛容化の推進と並行して、犯罪が減少し始めたからだ。

つまりは理念や理想だけの寛容化政策ではなく、犯罪の少ない社会を本気で目指したが故の帰結なのだ。

満期出所者には帰る家と仕事を国家があっせんする。 彼らが社会に復帰することを本気で考えている。

 

一方我が国の刑事司法は、本気でそのような社会を作ろうとは考えていない。 むしろ追い込んでいる。 クラスの多数派が誰かを追い込むように。

悪と規定した標的やその家族をネットとメディアが誰かを追い込むように。

 

先の被告人は法廷で、「単一文化が保たれている完全な社会」を保持する国家の一つとして日本の名を挙げ称賛した。

だから時折想像する。

もしも 「あのテロリストから称賛されたことをどう思うか?」 と質問したら、ネットで「追い込め」や「許すな」などと書き込んでいる人たちは、何と答えるのだろうかと。 ”

 

 

 

今私は正義を口にしているのだろうか? 今私は正義の側だと思い込んでいるのだろうか? 本当に正義はあるのだろうか? 悪は初めから悪なのだろうか? 私は悪にはなりえないのだろうか? 自分の中に悪は存在しないのだろうか?

幾多の過ちを犯し、 人を傷つけ、 時に真実が認められず傷つき、 意味もなく攻撃された体験を持つ私には、 どうしても一方的な「立場」になることが難しい。

いつ、どこで、人はどの立場になるやもしれぬ。 そんな思いがあるからこそ、普段より他人事も自分ごとと考えるよう努力はしている。

一人の人の中にどれだけ深みを見いだすか、 それが垣間見え始めた時にこそ、相互理解という扉が開き始め、 一人の人の中に自分自身を見つけた時にこそ、相互扶助の精神が開花する。

どうすれば、 人は人を知れるのか、 他者の中の自分を見いだせるのか、 自分と他者は融合できるのか、 それを具現化するためのしかけの一つとして、あいあいキャンプなるシステムが存在するのだが、 はたして本当にそこに集う若者や、子どもたちにとって、少しでもその実現に寄与出来ているのだろうか?

少しでもお役に立てていればいいのだがと思うと同時に、 あまりの世界や国の大きさに、己の無力さ卑小さが暴露され、身動きすることが恐ろしくなる。

少しずつと思いながらのあいキャン12年目。

変わり目の時を感じてならぬ。

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