おととい急に倒れた義伯父は、そのまま看取られながら旅立った。
78年の生涯だった。
本日が葬儀だったのだが、母方の兄弟も多く、いとこやその子供も含めるとかれこれになるのだが、すでに兄弟も全員高齢域に達しているため全員参加とまではいかなかった。
久しぶりに見る顔ぶれは子ども時代からお世話になって来た顔ぶれであり、共に遊んだ顔ぶれであり、新たに見る顔ぶれであり、世代がみごとにつながっていることを実感できる数少ない空間でもあった。
そして、喪主を務めた年下のいとこは、一人娘ながらみごとな挨拶をこなし、子どもの時の面影を感じることはできなかった。
それぞれがそれぞれの人生を歩んだことを証明していく機会が少しずつ見え隠れする。
棺桶に横たわる義伯父もしかり。
個性的な生き方を最後まで貫かれていたが、私に見えている部分はわずかに過ぎないことは明白。
家族にとっての共に過ごした数十年は、そのまま家族の年輪となり、知らず知らずの間に太い幹となっていた。
その大木の下に、様々な人々が行き来し、集い、そこだけの世界を生み出していたことを垣間見る。
私が生きてきた52年もそれなりだろうが、義伯父の生きてきた78年は私が想像できる以上のそれなりであったろう。
昔に感じていた 「死」 と 今感じる 「死」 が、違って感じる。
すなわち、昔感じていた 「生」 と 今感じている 「生」 が違っているということなのだろうと思う。
どこが違うのかを突き詰めることより、 今の感じ方ができている考え方と、 行為、 行動を大切にしたいと思った。
年をとってから、皆と会うこと。
見えなかったものが見え、 感じなかったものを感じる幸せを、体感させていただいた、大切な一日でありました。
かけがえのないコミュニケーションを、 人は死してからも、 創りだすことができる。
合掌