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死生観への郷愁
2020年7月6日 | 雑記

“ 我々は常に、「生」か「死」かという実在的状況にさらされている。

明日には巨大地震が襲うかもしれない。

交通事故にあうかもしれない。

いつ心臓発作にみまわれるかもしれない。

しかし、誰もそんなことは意識していないし、いちいち気にしていれば生活も成り立たない。

 

かといって、次の瞬間に命果てればそれもよし、という覚悟を決めているわけでもない。

なんとなく意識から遠ざけているだけなのである。 ”

 

 

と語るのは、京都大学名誉教授の佐伯啓思氏である。

そしてこう続ける。

 

 

“ そうした日常に、今回のコロナは死の剣を突き付けた。

いかなる対策をどのように打とうと、感染症は必ず人に襲い掛かる。

その時、人はどうしても不条理な死に直面せざるを得ない。

生と死について思いを巡らさざるを得ない。

納得できなくとも、それを受け止めるほかない。

その時、われわれは何らかの死生観を求めているのではなかろうか。

 

 

日本にはユダヤ・キリスト教ほど強い教義を持った宗教はない。

だが、神と結びついた死後のたましいの観念や、浄土教のような極楽信仰や、あるいは仏教の死生一如といったような死生観は、まだ古人のこころをそれなりに捉えていたのであろう。

それらは、とうてい受け入れがたい不条理な死をも受け止め、死という必然の方から逆に生を映し出そうとした。

いずれ、生死とともに「無常」という仏教的観念が日本人の精神の底を流れていたことは疑い得まい。

「諸行無常」が生死の覚悟の種になったことも事実であろう。

 

 

今日、我々の生と死に対して責任を持つのは国家なのである。

「まつりごと」が「祭事」から「政事」に代わったのだ。

17世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズが、国家とは何よりもまず人々の生命の安全を確保するものだと定義して以来、近代国家の第一の役割は、国民の生命の安全保障となった。

我々は自らの生と死を、自らの意思で国家に委ねたことになる。

こうしてホッブズは世俗世界から宗教を追放した。

超自然的な存在によるこころの安寧やたましいの安らぎなどというものは無用の長物となった。

 

かくて、コロナのようなパンデミックにおいては、国家が前面に登場することになる。

我々自身でさえも、おのれの生死に対する責任の主体ではなくなるのだ。

その生死に責任を持つのは政府なのである。

それが国民との契約であった。

そして例外状態、つまり国民の生命が危険にさらされる事態にあっては、私権を制限し、民主的意思決定を停止できるような強力な権力を、一時的に政府が持ちうるのである。

これが近代国家の論理である。

 

 

いささか興味深いことに、今回、世論もメディアも、はやく「緊急事態宣言」を出すよう要求していたのである。

ついでにいえば、普段あれほど「人権」や「私権」を唱える野党でさえも、訴えていたのである。

ためらっていたのは自民党と政府の方であった。

 

これを指して、日本の世論もメディアも野党も、なかなかしっかりと近代国家の論理を理解している、などというべきであろうか。

私にはそうは思えない。

 

今回の緊急事態宣言は、一時的なものであり、しかも私権の法的制限を含まない「自粛要請」であった。

しかし、真に深刻な緊急事態(自然災害、感染症、戦争など)の可能性はないわけではない。

その時に、憲法との整合性を一体どうつけるのか、憲法を超える主権の発動を必要とするような緊急事態(例外状況)を憲法にどのように書き込むのか、といったそれこそ緊急を要するテーマに、野党もほとんどのメディアも一切触れようとはしないからである。

 

そうだとすれば、政府はもっと強力な権力を発揮してくれ、という世論の要求も、近代国家の論理によるというよりも、ほとんど生命の危険にさらされた経験のない戦後の平和的風潮の中で生じた一種のパニック精神のなすところだったと見当をつけたくなる。

 

いざという時には、国が何とかしてくれる、というわけである。

 

国家は我々の命を守る義務があり、我々は国家に命を守ってもらう権利がある、と言っているように私は思える。

 

ここには自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。

もしこれが国家と国民の間の契約だとすれば、国民は国家に対して何をなすべきなのかが同時に問われるべきであろう。

 

 

 

今日、死生観などということは誰も言わない。

だが、私には、どこか、古人のあの、人間の死という必然への諦念を含んだ「無常観」が懐かしく感じられる。

少なくとも、古人は、その前で人間が頭を垂れなければならない、人間を超えた何ものかに対する怖れも畏れももっていた。

そこに死生観がでてきたのである。

我々も、こころのどこかに、多少は古人の死生観を受け継ぐ場所を持っておいてもよいのではなかろうか。”

 

 

 

 

 

要約しすぎてわかりにくくなっていたらごめんなさい。。

 

でもこれだけでもピンとくる人は来ると思います。

何もかも「誰かのせい」病にかかっている多くの人たちに向けてくれた「愛」ある鞭として、素直に受け止めたいと思います。

 

「他人事」から「自分事」へ。

 

あらゆることに対して、そう受け止められるようになったなら、

変な話、

「不安」も「怖れ」もなくなるかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

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