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漱石の苦悩
2016年12月3日 | 雑記

京都大学名誉教授である佐伯啓思氏の文章に面白いものがあった。

夏目漱石の言葉を借りながら紐解くその内容とは・・

 

”  漱石が明治の末期におこなったある講演の中で述べている。

ドイツのオケインという学者がこういうことを言っている。  近頃、人々は一方で自由や解放を望み、他方では秩序や組織を要求している。 しかし、この矛盾するものを両方とも実現することは無理で、どちらかに片づけなければならない、と。

これは、一見したところもっともらしく聞こえるが、実は、こんなことは、この世界を傍観している学者の形式論にすぎない。 実際には、われわれは、日常生活の中でこの背馳するふたつのことを両方行っているではないか、と漱石はいう。

 

学者というものは、普通の人より頭もよくしっかりとものを考えるのだから、間違うはずがない、と思いがちだが、学者の態度は、対象から身を引き離して、それを観察し形式論を立てるに過ぎない。 しかし、日常の世界の中で活動しているものにとってはこんな傍観者的な観察はあまり意味がない。 矛盾に満ちたこの世界を自分のこととして体験するほかない、というのである。

 

もっともだと思う。 だから、漱石は、東京帝大の学者の地位を捨てて、日常の「ふつうの人」の心理や人間関係の、それこそ矛盾に満ちた微細を描く小説家に転身したのであった。

オイケンを取り上げながら、漱石は、学者の形式主義が、不完全な人間である「ふつうの人」つまり、市井の庶民の心理や経験からかい離してゆくことに不満を漏らしていた。

今日的にいえば、人間や社会を対象とした実証的科学が、その対象とする人間や社会の実際とはかけ離れていってしまう。 それにもかかわらず、社会を指導し、動かすものは、この学者の形式論なのである。 各種の専門的な知識人が、傍観者的に、理想的な社会を描き、そちらへ社会をひっぱっていこうとしても、「ふつうの人」は動かない、というわけである。 つまり、エリート層と庶民の間に大きな懸隔ができてしまう・・・

 

漱石の生きた明治の時代は、エリート層による欧米政策こそが進歩だとみなされ、近代化とされてきた。 当時の一級の英文学者でありながら、英国留学で散々な目にあった漱石は、エリート知識人たちが拠り所にする西洋の思考方法は、とてもではないが、そのまま日本に当てはまるものではないことを十二分にわかっていた。 とはいえ、漱石もまたひとりの知識人である。 そこに彼の苦悩があった。

こうしたことは、グローバル化や国際化が叫ばれる今日のわれわれにも無縁ではないと思う・・・

確かに、この20年ほどをみても、グローバル化へ向けた社会変革を説く専門的学者や官僚、ジャーナリズムなどのエリート知識層は、西洋発の学問や知識を母体にした合理主義で社会を「進歩」させようとしてきた。 そして、それがどうやらエリート層と庶民の間の大きな分断を生み出すであろう。 トランプ現象のように。

 

漱石はこう書いている。

近年では、「現代的」という言葉がよく使われる。 これに対して、昔の人は古人とか古代を尊敬したものである。

だが今日の日本では、西洋の新しい人の名を口にすることが権威になっている。 つまり、昔の人ではなく、自分に近い同時代人を持ち出す。 この傾向が極限まで来れば、自己崇拝ということになる。 じっさい、今日の日本人が新しい西洋人の名前を引用するのは、その人を尊敬しているからではなく、その名前を借りて自分を崇拝しているのだろう、と。

 

漱石の死から100年たって、残念ながら事態はどうもあまり変わってはいない、といわざるを得ない。”

 

 

私はすべての学者がそうだとは思わないが、おおむね共感してしまうものでもある。(苦笑)

まあ環境的に仕方のない部分もあるが、「誰のために」「何のために」という心や理念の根幹がぶれてなければこうはならないのではないか、とも思う。

しかし、私がもっと重大だと思えるのは、この「学者」に当たる人々が、今や「ふつうの人」にも当てはまる人が増えてきてはいないか?  ということである。

あたかも傍観者のように、さまざまな事象に対して観察し、決して自ら体験しようとはしない輩がそこかしこに見受けられるのである。

自分が当事者であるはずなのに、そのメンバーであるはずなのに、一員であるはずなのに、あたりまえであるかのように、当然のように、傍観しているのである。

 

そして、西洋の権威ある人の名を引用するかのごとく、テレビや雑誌に登場する人の名を借りては、その言葉や行動様式を真似て、あたかも自分も有名人と同化しているかのごとく振舞いながら、自分自身を崇拝しているように見受けられるのである。

 

はてさてどうしたものかいな?

 

ということで、私はずっと「体験できる環境」作りを続けてきているわけである。

そしてその体験を通して少しでもいい、当事者としてありのままの自分を受け入れ、認めることから、矛盾に満ちたこの世というものを、弱さも強さも使いながら生き抜いていく術を身につけてくれればいいと思っている。

うまく生きる必要はないのだが、傍観者のままだと、生きながら死んでいるということになるのだと本気で思っている。

自分の人生の主体者は自分しかいないということを、決して誰かのまねをしても手に入らないということを、少しでも体験の中から実感してくれれば、必ず、でこぼこしながらでも自分としての人生を進んでいける気がする。

それを持ち合わせて生きていくのであれば、エゴイストでもなく、ナルシストでもなく、すなわち自己崇拝者でなく、人間の中の一人の責任者として、まわりの他者とともに社会を構築していけるのではないだろうか。

 

たわごとのようなことを、私は結構本気で考え、そして環境を作り続けている。

「学者」にならないように気をつけながら。

 

 

 

 

 

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