いよいよ松山も梅雨入りしたようで、今週一杯雨模様の予報である。
まあそれ以前に、私の心はとうに雨模様であり、いやはやどういう風に「自分」を保つのかが、よくわからなくなってきた。。
あらゆる生活のリズムが変化し、仕事も変化し、アソビも変化した。
ただ、毎日3食の食事ができて、睡眠も同じようにとれる環境は同じ。
違うことといえば、
「移動」の自由が制限されていることくらい。
しかし、
この「移動の自由」こそ、人間にとってのっぴきならない欲求の一つなのだと、ある哲学者が言っていた。
「法」を犯した罪人はどのように扱われるのか。
歴史を振り返っても、移動の自由を奪われるということらしい。
監獄なりに押しとどめられ、自分の思い通りに移動できない、行動できない。
「不自由」というフィードバックこそが、罪人に与えられる「罰」なのであると。
したがって今の私たちも、罪は犯していないと思われるのだが、ほぼほぼ「罰」を受けるに等しい状態に自らを追い込んでいるともいえる。
苦しいわけである。
移動の自由がなくなるだけで、こんなにも、心身ともに変調をきたすものなのだとよく理解できた。
が、
さすがにこれだけでは壊れていきそうになる。
医療や福祉の現場では、多忙を極める環境であるようだが、商業の世界は冷え冷えとしている。
どのようにビジョン設定すればいいのか、事業計画を立てればいいのか、
新たに押しかけてきそうな世界に対して、向き合い方すら定まっていないような気がする。
気分転換に旅に出たり、友人と雑多なおしゃべりを交えたりする中で、自然に湧き上がってくる世界がたくさんあったのだが、それができないことが、一種の苦痛になってしまっている。
これほどまでに、自分が不自由という罰に弱いものかと唖然とするが、発見でもある。
緊急事態宣言は解除されたが、その習慣は継続中。
今度は少しずつ、自らを適度に開放していこうと思う。
「自分にしては今までよく頑張った」と少しは褒めてやりながら、
少しずつ移動の自由を与えていこうと思う。
動けることの喜びをかみしめつつ、
できるだけ人のいない場所へと自分を誘い、
空気の流れる場所にて、心も流してやろう。
何かが詰まっているような気持ちを、少しずつ掃除してやろう。
そうしてやれるのは、
ほかならぬ自分しかいないのだから・・