25年前、国内を震撼させたオウム真理教による「松本サリン事件」。
自らも毒ガスにより被害者となり、妻は意識が戻らないまま14年後に亡くなる。
それなのに、事件直後から容疑者扱いされ、報道機関は犯人視する報道をしてしまう。
逮捕もされず、裁判も行われていないのに、一瞬にして犯人にされてしまい、自宅への無言電話、いやがらせ、脅迫の手紙が続く。
自分を支えたのは、妻と未成年の子どもたちを守らなければという思い。
一般会社員から、被害者へ、そしていきなり時の人となってしまったのは、河野義行さん(69歳)。
子どもたちに話したこと、
「人は間違うものだ。 間違えているのはあなたたちの方なのだから許してあげる。 そういう位置に自分の心を置こう」
意地悪をする人より少し高い位置まで、
許すという場所まで心を引き上げようということです。
悪いことはしていないのだから卑屈にならず平然と生活しようとの思い。
許すという行為なしでは、家族の精神が支えきれない状況だった。
翌年、地下鉄サリン事件が起き、疑いの目はオウムへと向かう。
警察もメディアも容疑者から被害者へと扱いを変え、謝罪する。
その後オウム関連の信者を町から追い出したり、子供を学校に受け入れなかったり、信者を社会から排除する動きが高まった時、河野さんはその風潮を批判する。
自身が社会から悪とされ、排除された人間だからという。
犯人扱いされたとき、河野さんの友人は地元の有力者から、町から出ていけと言われ、
結婚した親戚の娘も、嫁ぎ先から離婚を迫られている。
自分にかかわるものが、全否定された。
同じことが、信者たちに降りかかっていた。
信者だというだけで、人権侵害が是認されてしまっていた。
それは間違っていると。
オウムを憎くないのか? とよく聞かれましたが、彼らが有罪であると確定したのはずっと後のこと。
推定無罪の原則は大事なはず。
それよりも、病床の妻と子と自分の人生をどうやって少しでも充実させるか、それが大事だった。
事件前の元気だった家族に戻りたい、と願うことはできる。
でも、どれだけ誰かを恨んでも憎んでも過去は変えられない。
ならば人生の時計をちゃんと動かして、前に歩いて行った方がいい。
恨んだり憎んだりするという行為は、現実には夜も眠れなくなるほどの途方もないエネルギーを要するもの。
しかも、なにもいいことがない。
不幸の上に不幸を自分で重ねていく行為なのです。
そんなことをあえて自分から選ぶ必要はないでしょう・・
多くの人にとって、違和感を覚える言葉の数々かもしれないと思いつつも、
私には歴代の「聖人」の言葉のように、心にしみ込んできた。
私たちは「許して」いるだろうか?
許し合っているだろうか?
なんでもないことを許さず、いがみ合ってないだろうか?
自分のことは寛容に許し続けるのに、
それ以外の他者には、途端に攻撃態勢になってはいないだろうか?
私のレベルが低いのは、周知の事実だが(苦笑)、
河野さんの言葉に触れて、目の覚めるような思いがした。
” 恨んだり、憎んだりしても何もいいことがない。
不幸の上に不幸を塗り重ねる行為でしかない。
自分から選択しなくてもいいでしょう。 ”
あらゆることに対して、
本来浸透しているはずの「真理」を聞かされたような気がした。
ps. 死刑囚だった4人は拘置所で河野さんに謝罪している。 その時河野さんは、彼らに差し入れをしている。