本日やっとこさかみさんの右肩から突き出していた針金が抜かれた。
6週間よく耐えましたねえ。 頑張りました。 といってもまだ右手は満足に動きませんけど・・
これからはリハビリの日々ですね。 でも右手も付いているし、少しでも動くのですからたいしたものです。
本人も改めて自分の右腕に惚れ惚れと感謝していたようです。
本当にこんなことでもないとなかなか人は当たり前のことに感謝が出来ないものです。 私も ・・
ただ、これが目に見えるものに対する感謝であればまだなんとなくできるものですが、これが目に見えないものだととたんにもっと感謝する機会が少なくなってません?
目に見えないものというと、みんなは何を想像連想するんだろう。
私の場合は神様であったり、ご先祖様であったり、それ以外の霊の皆様であったり、生きている人からの生霊であったりするわけです。
この世が目に見えるものだけで出来ていると思っているとこの話はまったく腹立たしいものになるのでしょうが、私にはとてもそれだけで出来ているとは思えません。
普段そう思っていない人にとっても、案外神社仏閣にお参りすると、素直にお願い事をしてたり・・
それって目に見えないものにお願いしていると思いますけどねえ。
ここで私がお伝えしたいのは、この目に見えないものに対しても感謝をするということは、目に見えるものに対する感謝と同等、もしくはそれ以上だと思うということなのです。
何か与えてくれたら、プレゼントしてくれたら「ありがとう」と言います。 でもそれ以外にも実のところこの人生をさかのぼること数千万人の田中家のご先祖様が、いや田中家などという名さえない時代から脈絡と幾多の困難の中、命をつないでくれたおかげで今の私が居るわけで、その系譜の頂点に私の子供たちが居るわけで、すなわち私たち、今に生きる者たちはあらゆるご先祖様の頂点に君臨しているわけで、すなわちすべての代表選手として居るわけで、それだけで「ありがとう」なのです。
そしておそらくはそれらさえ内包してしまう宇宙世界を創造した神様に対しても「ありがとう」なのです。
その偉大なる存在たちに対して、軽々しくお願い事をするとは・・
感謝を先にせずに、願い事を叶えてくれたらする神経とは・・
あな恐ろしや。。
現時点で人類最高の代表選手としての責任を多少は感じながら、感謝と共に生きたい。
毎日、少しはそう考えながら行動しています。 今は・・ 昔はただのアンポンタンでしたけど・・
かみさんの嬉しい感謝の姿を見ながら、そんな想いにしばしふけってしまいました。