以前ご紹介した教士八段の剣道家に毎週月曜夜ご教授いただいている「剣道形」に昨夜もお邪魔してきた。
太刀七本の内五本目まで進んできた。
いよいよ気を抜くと木刀で大怪我するステージに突入である。
単に決まっている形を相手と演じあうだけだろう、簡単じゃないか、と思われる向きもおられようが事はそう簡単でも単純でもない。
この形というものはさすがにその流派一門の方々が命を賭けて編み出し、守り続けてきたものである。
それぞれ一つの型がすなわちその流派を現すゆえ、現代剣道の形、小太刀も含めて十本の中に残るためにそれこそ生き死に賭けてそれぞれの頭首は戦ってきたようである。
そんな代物であるからして、一本一本が本当に理にかなってもいるし美しくもあるのだが、ここに来てもう一つの側面が見えてきた。
あくまで剣道の本来の目的は相手を殺傷するためのものである。 戦場という実戦場において相手と殺しあう時にいかに相手を合理的に殺すかということを考えつくして生まれたのが一つ一つの形なのである。
したがってこの形を相手と演じることにより、その戦場での姿が見え隠れしてきたのである。
一分の隙も許されない緊張感と無駄の無い直線的な動き、そして何よりその動きを創造するための「見切り」。
私のような素人が想像するだけでも恐ろしく凄まじい環境世界だと思う。
あの当時のいくつもあったであろう戦いが、ひとつの稽古ごとに呼び覚まされるような錯覚に陥るのである。
まさに最も現代人が忘れているであろう ”死ぬかもしれない” が、ほんの少しではあるが体感できる。
実はこの感覚、愛車ドカティで三桁キロでもってワインディング・ロードを駆けている時に通じるものがある。 走る前に今回 ”死ぬかもしれない” とほぼ毎回のように思う。 しかし、走り始めるとそんなことを考える暇もなく、というかそんな状態ではなくなる。 無心に集中し、あらゆる変化に対応すべく実はリラックスしている。 次に起こりえることを無意識に用意している。 そのことが現れたときにそのお陰で何とか対応できたりする。 その準備というか心構えというか、何かこの剣道形と通じるものを今回感じてしまった。
バイクの話は決してほめられたものではないのだが、この ”死ぬかもしれない” の想像感覚は奇妙に聞こえるかも知れないが、なぜかとても生きている、生かされている我々にとって、とても大切な「意識」に思えてならない。
間違いなく全員がいずれ「死ぬ」。 だから今そんなことを考えなくてもいいじゃないかと思う人ほど、そのときが来たときに後悔することが、右往左往することがあるのかも ・・
なーんて。
蛇足だが、万が一寸止めに失敗し相手に木刀があたった場合 ・・・ (形は防具なし)
血がでていようが、骨が折れていようが 「失礼つかまつった」 でおしまい。
まさに究極の ”お互い様” なのである。
どう ? あなたも始めてみる ?