先週の日曜日にあいあいキャンプでお世話になった大宮八幡宮に感謝参りに出かけた。
もちろん趣味のツーリングを兼ねてであるが ・・
キャンプのために通る道沿いの河川敷にて途中休憩をしたのだが、キャンプ中では気づかない様々なことがあることに驚いた。 というより、安心した気持で見る世界は全てがゆったりと、やさしい色と時間に染まって見えるんだなあ。
何気ない川の水も透明に、滑らかに、永遠なものとして感じられるし、山々でのセミの声はステレオ放送のごとく自然のステージを彩ってくれる。
しばし放心状態で癒されてきた。
八幡宮に人気は無く、今度はステレオどころか360度のサラウンドでセミの合唱を聞くことが出来た。 苔むした神々しい木々の間をゆっくりと進みながら、あくまで生かされていることへの感謝の念を奉献させていただいた。
神社仏閣にて人はついぞお願いごとをする習慣が一般的になって久しいが、古いご先祖様たちはただ純粋に感謝のみを奉献したはずである。
収穫できた喜びは、すなわち何物かの命をいただく事であり、その命も自然によって生み出され、生かされてきたということを当たり前のこととして認識していたことだろう。
命は別々のものではなく、一つのもの、もしくはとても近しいものとして認知できる環境が整えられていたということでもあろう。
だから「まだ足りないからもっとほしい、ああして欲しい、こうして欲しい」的な欲求のお願いごとではなく、ただ今在ることへの感謝が自然と滲み出ていたのではないかと推察する。
そう感じるから私は小学校高学年くらいからお願い事をした記憶がない。 というか意識的にありのままに対する感謝のみを心の中でささやいてきた。
まあわがまま放題のわたしを知る人々からは「大うそつき」といわれそうであるが、これホント。
今でもそうだから、かれこれ40年くらいそうやって神仏と関わらせて頂いてきたということである。
自分の外に神様がいると思うから、それはどうしようもないほど別世界の存在だと思うから、人は簡単にお願いをするのだろうか?
大きな力で救ってもらおうとするのだろうか?
甘えるのだろうか?
でももし、神様は自分の中にもいらっしゃるのではと仮定したときに、自分の中の神に対してそう簡単に依存するだろうか? そのことをしっかり見られているのに ・・
自分の良心にうそはつけないとは、まさにこういうことではなかろうか?
そんなことを考えながらひとり八幡宮の周りを回らせていただいた。
ツクツクボウシが遠慮がちに鳴いていた。
秋が、 近い ・・・