先日ブルーマーブルにて店内の本を読んでいたら(オーナーが揃えたいい本がたくさんある)、あの魯山人の言葉が引用されていた。
その言葉はとてもシンプルなのだが、とてもズキンときた。
『自分の実力が相手より上であれば、相手の実力が手に取るようにわかって、おのずと余裕が生まれてくる。 画でいうなら、自分の鑑賞力が高ければ、いかなる名画といえども、自分だけの価値を見出すことが出来る。 しかし、画が自分の鑑賞力より数等上であれば、その美の全部を味わうことは出来ない。
反対に自分の力がより上であれば、今度は相手の画が不足になってあらゆる欠点が発見される。
かくの如く、鑑賞力なり味覚なりは、わかる者にはわかるし、わからぬ者にはどうしてもわからない』
なぜズキンときたか? うーん、50年生きてきて、出会ってきて、体験してきて、学んできて、チャレンジしてきて、失敗重ねてきて、ある部分で実力がついたところもあるし、まだまだのところもあるし、いろんなポジションが自分の中にみえてしまう。
相手に不足を感じる部分もあるし、自分自身がわからぬ者であるのだろうと想像する部分もある。
ちょうどビミョーなお年頃? って感じ、 っていうか、 自分が少し成長できたかな? って思うとすぐにそれ以上の凄い人物とか、事象に出会う。
だから、永遠に凄い人は居続けるということはすごく分っている。
だから自分に満足することはなく、死ぬまでチャレンジだなと決めている。
だけど、相手に不足を感じる場合、それは単に「わからない者にはどうしてもわからない」で済ませていいものだろうか?
実はこの部分で私はかれこれ悩んでいる。 ほんと、わからないということは分かる。わかる側から見れば ・・
しかし ・・・ あくまで本人の選択した結果という人生のルールに従えば、本人の状態は常に完璧であり、何人たりとも簡単に侵害すべき世界ではないのだろう、 とも思っている身としてはここのところで関わるべきではないのか? それともおせっかいだろうが相手が自ら気づくような環境なり世界なりは用意してやるべきなのか? と、悩んでしまうのである。。
なんとも難儀な性分であるのだがしょうがない。
しかし、 少し考えてみる。 魯山人もそうではなかったのか? 自分が納得できるものへの挑戦は最後まで続けながら、同時に周りの環境や人々に対して、あるときは恐ろしい勢いで関わりながら何かを伝えようとしてきたのではなかったのか? 単なる想像である。
あの魯山人にしてさえ、自らの中に持つわからぬ者に対しての挑戦と、自らの外に持つわからぬ者に対しての挑戦が、あのジャンルを問わぬ人々の、年齢を問わぬ人々の、性別を問わぬ人々の感動と無感動、感謝と軽蔑、光と影、簡単と複雑、理解と無理解を生み出し、その相反する永遠なるテーマを、食や器の中に悩みながら具現化し続けたのではなかろうか?
だからこそ、 あの言葉が ・・・
自らが自らに対するアンチテーゼとして存在する。 ひとりでその存在を共有する。
・・・ 勝手な想像だけど、 想像だけでしびれてしまう。
なんともちっぽけな私の悩みであった。