先ほど剣道形の師匠である教士八段、加茂 功先生のところに本年お世話になったご挨拶に伺わせていただいた。
本人はさほど大げさに感じておられないかもしれないのだが、私にとっては中々の一大事の年であったのだ。
若かりし頃剣道を少々かじっていた時には先生方の説教くさい話など、いよいよめんどくさいと思っていた私であったが、この年に至りそれなりの体験経験を経てみると改めて触れる先生からの剣の教えが身にしみることと相成った。
即生きるか死ぬかどちらかの結果が出てしまう剣の世界においては、それに関わる何人たりとも避けては通れない現実だからこそ生まれた考え方があり、それが身を守ることに繋がったり、人生を深く知ることに繋がったり、生き方に繋がったりしている。
能という芸術にもなり、茶道という道にもなり、それ以外のあまたの道に繋がっていくのである。
死を身近に感じながら生きると、やはり必然として本気の世界を長く体験することになるのであろうと思われる。 そしてそこに「美」を見つけ出していくように思われる。 「真実」かもしれぬ。
この加茂先生と話していると今の世にいながらにして、武士の時代にいるような気分になる。
先生のあらゆる所作、発言、姿勢、生き様等々が本当にそのような気にさせるのである。
そしてその先生にも実は大先生が昔から存在している。
亡くなられた大先生やご健在の大先生は適宜、先生に対して「渇」を入れたり、あらゆる書物の中に残る「教え」を説いて下さっていたというのだ。 そしてその大先生は殺すための剣ではなく、活かすための剣を説いてこられた方々であるという。 この説明は深くなるので又にするが、これは偶然ではなく、必然であったろうと思われる。 昔から師を選ぶのに三年かけよとも言われてきた。 それくらい誰に教えを請うかこそがいかに大切かを説いているのだが、これがなかなか難しい。
本人のレベルでは本当の師のレベルが分からないからである。 感覚を信じるしかないのだが、データに頼るよりは遥かに確立は高いと思う。 まただからこそ師の方から、弟子の力量、可能性、資質等々を鑑みて門を開いてやらねばならないのだが、弟子が断ればこの関係は一旦は終わる。 そこで素直に受け入れ続けた弟子だけが、その教えを深めていくことになる。
そうやってその考え方はまた熟成していく。 そして考え方はまた場所を変えても伝わることとなる。 その中の流れの一端に私もいる。 そう考えるだけで師匠の師匠のそのまた師匠のまたまた師匠の ・・・ 考え方というDNAで連綿と繋がっているというか、心の一族のような気持ちになる。
それらのつながり続けた教えを今私は受けられている。
これを喜びとせずに何としよう。
いや勘違いしないで頂きたいのは、この考え方が最高であるなどとはまったく思っていない。 如何に様々な考え方があるか少々は知っているし、いろいろあることの大切さも多少は知っているつもりである。 ここで言いたいのは同質の考え方、すなわち理念を共有できているかも知れぬという喜びなのである。
だって、剣道とは勝たねば意味は無いとする先生方もそれはそれはたくさんいらっしゃるし、それが間違いだなどとは決して思ってないことは付け加えておきますね。 どこかでだれかにバッサリやられないように ・・
まあ今年先生が始めてくださった剣道形のお陰で、感動と共に、それくらい再確認というか新たな気づきを与え続けていただいていることが本当にうれしいということで、素直で正直な私の気持ちが本日の訪問と相成ったわけであります。
もちろん甘党の先生の喜びそうな手土産は忘れませんでした。
本日先生から頂いた教え、 法眼鬼一が源 義経に贈ったとされる書である
『来たれば即ち迎え、去れば即ち送り、対すれば即ち和す。
五・五の十、二・八の十、一・九の十、これをもって和すべし。
虚実を察し、陰伏を知り、大は方所を絶し、細は微塵に入る。
殺活機在り、変化時に応ず。
事に臨んで心を動かすこと勿れ。』 寿永三年二月
世界平和のための知恵でもある。